『加害者』としての人魚

いきなりですが、皆さんは『人魚』に対してどのようなイメージを持っているでしょうか?最初に接した作品にもよるでしょうが、知名度から考えてやはりアンデルセンの『人魚姫』が現代の我々が持つ人魚像の代表的なものなのではないでしょうか。(知名度から考えるとディズニーのリトルマーメイドの影響も大きいかと思いますが、あれも原作はアンデルセンの人魚姫ですので同じものとさせて頂きます。)

それではアンデルセンの『人魚姫』から受ける人魚のイメージとはどのようなものでしょうか。前回の『人魚は涙を流すかー天外魔境Ⅱと人魚の涙』でも触れましたが、もう一度『人魚姫』のあらすじについて簡潔に振り返ってみましょう。

 

「海底の御殿に住む人魚の6姉妹は15歳になると順番に人間世界に出掛けて行った。末子の人魚姫は海上に出た時に船の上にいた王子様に一目惚れし、海難事故で命を落としそうになった王子様を助けたことでさらに恋愛感情が強くなっていった。しかし、水中に暮らし、異形(人間から見て)である自分が人間である王子と結ばれることは不可能であることに気付いた人魚姫は海の魔女に頼み、自らの美しい声と家族やこれまでの生活と引き換えに人間の姿を手に入れ、王子と一緒に暮らすようになる。(ただし、王子の愛を得ることが出来なかったときは泡となって消えるという条件付き)

しかし、声を失っていることもあり、自分の思いを伝える機会に恵まれなかった結果、王子は他の婚約者と結婚してしまう。海の魔女からは王子の命と引き換えに再び人魚に戻れる選択肢が提示されるが、人魚姫はそれを拒否して海に身を投げ、自殺を図る。しかし、人魚姫は泡となって消滅したわけではなく大空の精霊として新たな使命を帯び、不死の魂を手に入れるために人々のために献身の長い旅に出るのだった。」

 

 この物語から受ける人魚の印象とはなんでしょうか。それは『悲哀』『悲劇』『可哀想』『不憫』…等々といったどちらかといえば負の感情を抱くものであり、人魚姫といえば『被害者』的な印象を受けるのではないでしょうか。(勿論、人魚姫はただ単に悲劇の話ではなく献身や自己犠牲の精神も説いている作品でもある)この人魚姫に対する印象が、現代の私達の『人魚』に対する印象と同義と考えてもよいのではないかと思います。

 さて話を天外魔境Ⅱ 卍MARUに移します。天外魔境Ⅱにも人魚は主に二か所で登場します。一つは越前国の人魚村、もう一つは安芸国の船海宮です。越前の人魚村では女王ヤダキの依頼を受けた後は極楽太郎を開放してくれますし、人間に対して複雑な思いを抱きつつも嫌いになりきれていないようですし、卍丸が助けた人魚ちゃん(名前がないのだ…)も三太と卍丸の両方に好意を抱いています。

船海宮でも極楽の千代装備を引き渡してくれるなど基本的に火の一族と人間に対して協力的な立場をとっており、人魚は人間に対して『善』なる印象を受けます。

人間側にも安芸国尾道村に

 

「誰も信じやせんがな 南の沖合いで俺は人魚を見たことがあるんだぜ…いや別に信じてくんなくてもいいよ

でもよ いつかまた人魚と会って俺よあのコと友達になりてぇんだよ いや別に笑ってくれていいんだぜ」

 

 と、人魚に対して憧憬の念を抱いているモブキャラクターがいます。

このように天外魔境Ⅱの世界において人魚と人間は基本的に互いに害のない良好な関係を基本的に築けているようです。(足下兄弟のような例外は除きますが)

 ところが、安芸国にはもうひとり人魚について語るモブキャラクターが存在します。それは岩国村の漁師であり、本人のことではなく仲間の漁師が経験したこととして語ります。

 

「ずいぶん前の話じゃが 漁師仲間がずーっと東の沖で人魚の島を見つけたって騒いでおったっけな

あん?その漁師仲間か? 風呂でおぼれて死んだよ」

 

これは何なのでしょうか。かたや人魚を見つけて恋い焦がれる人間がいるかと思えば、かたや人魚の島を見つけただけで溺れ死ぬ人間もいる。後者は単なる事故だと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、同じ安芸国に正反対の運命を辿っているモブキャラクターがいる、これは何らかの意味があっての演出なのではないでしょうか。人魚の姿を見ただけでその人間には破滅が訪れる。まるで人魚は人間にとって『善』なる存在でもあれば、『悪』の存在でもあるかのように。

さらに天外魔境Ⅱではもう一つ人魚が人間にとって『悪』の存在であったことがあります。それは誰かというと『はまぐり姫』です。はまぐり姫は元々ヨミに人間にしてやると騙された人魚のなれの果てとされています。はまぐり姫の配下にある根の一族たちは越三国の人間たちに直接的な被害を与えていたようです。富山町にいるモブキャラクターの台詞として

 

「根の一族はよ 幻夢城につぶされた村の人たちが 逃げられないように東にあった橋を壊しちまったんだ!

それで 逃げ場のなくなった人たちを皆殺しにしやがったんだ!ひでえ話じゃねえかよ!」

 

 というものがあり、根の一族による人間に対する凄惨な虐殺が行われたようです。ただし、これがはまぐり姫の直々の命令によるものなのかどうかは不明であり、下っ端の根の一族が勝手にやっていることかもしれません。というのもはまぐり姫の直属の部下であると思われるワダツミ五人集は直接的に人間に害を与えるというよりも卍丸達に対する時間稼ぎのような回りくどいことばかりしているからです。例をあげると鬼面岩で道を塞ぐ、富山城の殿様に化ける(本物の殿様や部下は無事に生かしている)、鉱山を閉鎖させる等など…しかも直属の部下であるワダツミ五人集の一人『海牛法師』はこのような台詞を言います。

 

「本来ならばここできさまを血祭りにあげるところじゃが

はまぐり姫様は心やさしきお方 命だけはご容赦なさるということじゃ」

 

と、直接的に害を与える意思はあまり感じられません。(もっともこれは人間全般に対する思いというより卍丸個人に対する好意なのかもしれません。もっといえば上記の海牛法師の台詞もはまぐり姫の実際の発言ではなくワダツミ五人衆が勝手に忖度したのかもしれません)

しかし、そんなはまぐり姫が自分の意志で人間に危害を与えたと思われる出来事が一つだけあります。

それは越後国の美女平村にいる嫁入り前の美女たちの頭に貝殻を被せる―という行為です。何故そんな回りくどい行為を…と私は子供の頃から思っていましたが、これはおそらく『若くて美人でこれから嫁入りを控えて将来が希望にあふれている』娘たちのことが『自分もかつて人間に憧れていた美しい人魚であったが、根の一族に付け込まれて醜い怪物に変えられてしまった』はまぐり姫にとっては許せなかった―――つまり、『嫉妬』の感情によるものなのではないでしょうか。人間の世界を征服するというだけなら、こんな回りくどいことをせずに下っ端の根の一族がやっているように殺してしまえばいいわけです。そうせずに美女たちの顔、つまり美貌だけを奪うというのは、やはり自分が失ってしまったものを他人が持っているという感情が核になっており、『嫉妬』によるものなのではないでしょうか

(※このことについては『歴戦の記録』様の考察を参考にさせて頂きました。)

 

上記したように天外魔境Ⅱの世界において人魚とは人間にとって単純に『善』ではない、時として人間に牙をむく『加害者』としての側面もあることを振り返りました。

では、人魚に関する文献や小説等の創作において人魚とは人間にとってどのような存在なのでしょうか。

人魚と出会った人間が何を思い、どのような運命を辿ったのか、そして天外魔境Ⅱとの共通点などを考察していきたいと思います。(妄想やこじつけとも言う)

※なお本文は参考にした小説の結末に触れていますのでご注意ください。

 

オデュッセイア』(ホメーロス)

現代の人魚のイメージの全ての始まりは紀元前8世紀頃にギリシアの詩人ホメーロスによる『オデュッセイア』によるものと思われます。(単に半人半魚の存在というだけならそれ以前にもありますが)

これがなければアンデルセンの人魚姫もはまぐり姫も存在していなかったと思うと極めて重要な作品かと思います。オデュッセイアトロイア戦争の英雄オデュッセウスが勝利の後、故郷への凱旋の途中に遭遇する様々な事象について語られる一大叙事詩であり、セイレーンの他にもサイクロプスやスキュラなど現代のロールプレイングゲームでもお馴染みの怪物たちが登場します。

セイレーンが登場するのは第12歌であり、ここでオデュッセウスは第10歌に登場する魔女キルケ―から美しい歌声で人間の心を奪ったのちにその肉を喰らう怪物『セイレーン』の存在を知らされます。

 

「まず、セイレーンたちのそばを通らねばなりますまい。彼女らは、近づいてくるものども―死すべき人間たちを、みな、魔法にかけてしまう。でも、その歌声に気をゆるめるなんて、なんて、なんというおろかな男! そうなったが最後、家で待つ妻もこどものたちも、主人の帰りを祝うことはない……その涼やかな声で、セイレーンたちは人を魅し、野原を―彼女らの住みかを縁取る浜辺は、肉の朽ち果てた人間の骨のかけらで真っ白になっているのですから…。」

 

そして魔女キルケ―はオデュッセイアにセイレーンの歌声の対策も授けます。オデュッセイアは歌声に惹かれてしまわないよう船のマストに身体を縛り付けること。部下たちは耳に蜜蝋を詰めて歌声を聞こえないようにするなどです。そしてオデュッセイアたちの乗った船がセイレーンの住む島に近づいた時に突如として歌声が響きます。

 

『きたれ、オデュッセウスアカネイアの誉れよ!船をとどめ、われらの声を聞け!われらは数々の凶事を、神々がトロアデの野で、そしてアルゴスで、トロイアで、人々に降した災いを、また、この恵みの大地に起こるすべてのことを、知っているのだから。』

 

この美しい歌声にオデュッセウスの心は乱れ、部下に対して自分の身体を縛っているロープを外すように命じるが、部下たちはオデュッセウスを縛っているロープをさらにきつく結んだ。そうこうするうちにオデュッセウスは心の安定を取り戻し、セイレーンたちの美しい歌を楽しみながら彼女らの島から離れることができた。セイレーンたちは一説によるとオデュッセウスの命を奪えなかったため、そのことを恥じて海に身体を投げ入れてしまったという。余談ではありますが、セイレーンの外見は当初は顔だけ人間の女で他は鳥というものであったが、8世紀頃からセイレーンの『人魚化』が始まり、時代が進むにつれて徐々に現代の上半身が美女で下半身が魚類という姿に変化していき、近代以降に描かれたセイレーンの絵画ではほとんどが現在の私がイメージする人魚の姿となっています。(これに関しては同じく顔が人間の女で身体が鳥の怪物ハーピーとの差別化を図るという意味もあったのではないかと個人的に感じます。)

セイレーンは人魚の祖といっても過言ではない存在ですが、人魚はその祖においては人間に対する明確な加害意識(というより殺意)を持った存在としてこの世に生み出されたことがわかります。そして人間側(主に男性)もセイレーン・人魚の美しい歌声と容姿にいかに抗って誘惑を跳ねのけるか、そこに人魚伝説の普遍的な魅力があるのではないかと思います。もしかすると天外魔境Ⅱで人魚の姿を見たために風呂で溺死した男が見たのは人魚ではなくセイレーンだったのかもしれませんね。

 

 

吾妻鏡

吾妻鏡は鎌源頼朝の挙兵(1180年)からの87年間について記述された鎌倉幕府の歴史書であり、内容に一部信頼のおけない部分があるとはいえ鎌倉幕府研究の基本資料とされています。吾妻鏡は諸本があり、全52巻の『北条本・島津本』と全47巻の『吉川本』がありますが、人魚らしき記述があるのは『吉川本』では巻36、巻38となります。以下吉川本より一部引用します。

 

三浦五郎左衛門尉参左親衛御方、申伝、去十一日、陸奥国津軽海辺、大魚流寄、其形偏如死人。先日由比海水赤色事、若此魚死故歟。先日由比海水赤色事。若此魚死故歟。随而同比、奥州海浦波涛、赤而如紅云々。此事則被尋古老之処。先規不快之由申之。所謂文治五年夏有此魚、同秋泰衡誅戮。建仁三年夏又流来。同秋左金吾有御事。建保元年四月出現、同五月義盛大軍、殆為世御大事云々

 

読んでみてわかりますが、どこにも『人魚』とは記載されていません、「大魚流寄、其形偏如死人」とあり、死人のような形の大魚が流れ着いたとの説明はありますが、これだけなら前回も取り上げたようにサンショウウオかイルカ、アザラシ、オットセイなどの海洋哺乳類の可能性の方が高いのではないかと思います。(余談ではありますが、私は以前、人魚のモデルを調べるために鳥羽水族館を訪れ、そこでセイウチのショーを見ましたが、セイウチは手足を使って器用に陸上を移動し、非常に人間臭いしぐさも見せるなど海洋哺乳類が人魚のモデルであるという説の説得力を実感しました。)

この吾妻鏡の人魚(?)の記述に関して『ものと人間の文化史 143・人魚』の著者である田辺悟

 

「同書の本文中には「人魚」という語彙は出てこないが、「大魚が流れ寄り、その形は偏に死人の如し」と記されたところから〈人魚ファン〉が我田引水で、これは人魚以外の何物でもないとしたにすぎない」

 

としており、私としても吾妻鏡の記述だけで=人魚(あくまで現代的なイメージの)とするのはやや無理があるかと思います。ただ、当時の人々が『見慣れぬ死人のような怪魚が流れ着いた』と感じているのは事実でありますので、ここでは吾妻鏡の記述は人魚についてのことであるとさせて頂きます。

内容についてですが、『同秋泰衡誅戮』とあるのは鎌倉政権と奥州藤原氏奥州合戦のことであり、『左金吾有御事』とは源頼家の将軍追放及び暗殺の事と思われ、最後に『同五月義盛大軍』は鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛が執権北条氏と戦った和田合戦のことと思われます。このように当時の人々にとって『人魚』の出現は大乱の兆しであると考えられていたようです。また冒頭に『先日由比海水赤色事』とあり、これは赤潮の事であると考えられますが、戦に限らず、人魚の出現は不吉の出来事の前触れと受け止められていたようです。

 

『陳晦伯天中記(天中記)』

陳晦伯天中記は中国『明』の時代に編纂された書物であり、その中に人魚に関する記述があります。

 

隆安(397~401年)の頃に呉国の陳性という男が浅瀬にヤナカ(魚籠のことか?)を仕掛けて魚捕りをしようとした。引き潮になった時にいってみるとヤナカの中に六尺(約1.8m)ほどの裸体の美しい女が横たわっていた。これこそが人魚で引き潮になったため、沖に帰れなくなったのであった。人々が声をかけるが返事はなかった。そのうちに人魚があまりに美しいこともあって一人の男が人魚を犯してしまった。

その夜、陳性が寝ていると夢に昼間の人魚が現れ「わたしは、この入江一帯をつかさどる神である。昨日、あなたのヤナカに入ってしまい、引潮のために砂洲に残されて困っていたとき、あなたの仲間に奸されてしまった。」と訴えた。次の日、気がかりになった陳性はヤナカのある場所に行ってみると既に人魚はいなかった。次に人魚を犯した男の家に行ってみるとその男は昨夜、急病になり死んでしまったということであった。

 

 この場合、人魚は人間に犯されるという『被害者』であると同時に報復として自分を犯した者の命を奪うという『加害者』でもあり、二面的な性質が見て取れます。また余談になりますが、浜辺に横たわる人魚を犯すという行為はかつての漁師がアカエイの総排出孔を女性器に代わりとして犯していたという伝説(本当にそのような行為があったかは不明)との共通点も感じられます。

 

 

『赤い蝋燭と人魚」(小川未明著)

新潟県高田(現上越市)出身の児童文学作家である小川未明の代表作に『赤い蝋燭と人魚』という童話があります。題名からわかる通り人魚が主役の小説ですが、この童話も人魚の『被害者』としての面と『加害者』の面の両方を描いた作品になっています。以下あらすじを紹介します。

 

「北の海に一人の人魚がいた。その人魚は海中の陰鬱で孤独な生活に絶望しており、そのこともあってか、人間世界を「美しく人情があって優しい」と思って憧れの念を募らせていた。自分はいまさら人間世界に入っていくことは出来ないが、これから生まれてくる我が子にはせめて「美しく人情があって優しい」人間世界で幸せに暮らしてほしいと願い、海岸沿いの神社に我が子を産み落とす。翌朝、親切な蝋燭屋の老夫婦に拾われた人魚は老夫婦の養女として大切に育てられる。人魚の娘も蝋燭屋の仕事を懸命に手伝い、人魚の娘が赤い絵の具で絵を描いた蝋燭は災難除けになると評判になり、店は繁盛する。そんなある日、人魚の娘の評判を聞きつけた香具師が老夫婦の元を訪れて人魚の娘を売るように持ち掛ける。最初は断っていた老夫婦だが、香具師から高額の金を渡された事で人魚の娘を手放すことにする。人魚の娘は香具師に連れていかれる直前に残った絵の具で蝋燭を全て赤く塗った。その後、真夜中になって色が白く髪がびっしょりと水に塗れた女が人魚の娘が残した赤い蝋燭を買って去っていく。それからというもの人魚の娘が拾われた神社にはいつも赤い蝋燭が灯るようになり、大荒れの天気が続き、赤い蝋燭を見ただけで、海で溺れ死ぬ者が続出する。その村は幾年も経たずして滅びて失なったという。」

 

これは欲望に負けた人間が人魚の願いを裏切った結果、人間の身に破滅が訪れるという流れですね。人魚の母親は願いを裏切られたという『被害者』であり、報復に人間を破滅に追い込む『加害者』の両面を持ち合わせています。(もっとも人間側からすると人魚の娘を売ったのは勿論悪いことですが、母親の人魚が勝手に人間に期待したことでもあり、それを破ったから報復されるというのは、少し理不尽な気もしますが…)

またこの作品で興味をひくのが赤い蝋燭が最初は幸運を呼ぶ道具であったのが、人魚を裏切ってからは不幸を呼ぶ道具と化し、海での事故が頻発してしまうというところです。

 

「昔は、このお宮にあがった絵の描いた蝋燭の燃えさしを持ってさえいれば、決して海の上では災難に罹らなかったものが、今度は、赤い蝋燭を見ただけでも、そのものはきっと災難に罹って海に溺れて死んだのであります。」

 

見ただけで溺れ死んだという点に天外魔境Ⅱの人魚の島を見ただけで溺れ死んだ男との共通点を感じますね。やはり人魚そのものが場合によっては不吉な存在であるという認識は中世から近代にかけて共通認識としてあったようです。

 

 

『人魚伝』安部公房

『人魚伝』については前回でも触れましたのであらすじについては省略します。前回も触れたように『ぼく』は緑色の人魚と涙を介した快楽に耽溺しているつもりが、いつの間にか『ぼく』は尽きることのない人魚の食肉と化していた―――という結末だけ見ると人魚が人間を殺し続ける、加害者としての面だけが強調されているように思われますが、そうでもないと感じます。

確かに人魚は『ぼく』が用意した棺桶のような木箱に自分から入ってしまい『ぼく』に対して好意を表しているようにも思われます。しかし、同時に人魚には乳首がないこと、変温動物であることなども判明します。つまり人魚伝の人魚は哺乳類ではない―――無理やりに人間世界の分類に当てはめるなら爬虫類や魚類に近い存在ではないかと思います。爬虫類・魚類が人間と心が通じることができるのか、これは人により解釈が異なることでしょうが、やはり一般のイメージとして哺乳類よりは心が通じにくい存在と思われているのではないでしょうか。(勿論、この考え自体が大きな誤りかもしれません。心が通じる、という極めて曖昧な表現が何を指しているのか不明であるし、私たちは犬や猫と心が通じていると思いがちではあるが、彼らが何を思っているのかなど誰にも分らないのだから)

だから、『ぼく』が人魚と心が通じていると感じたのも『ぼく』の勝手な勘違いなのかもしれません。

ここで何が言いたいのかというとそもそも人魚に加害意識があったのか、ということです。トカゲが羽虫に舌を伸ばすとき、チーターがガゼルに爪を立てるとき、人間が釣ってきた魚を三枚におろすとき、これらは結果的に『殺し』という終点に到着しているわけですが、はたして捕食者側が加害意識をもって行っている事でしょうか。(もしかしたらチーターは申し訳ない、申し訳ないと思いながらガゼルに噛みついているかもしれませんが…)

そう考えると人魚伝の人魚に『ぼく』に対する加害意識などはなく、ただ単に生物として飢えを満たすための格好の対象として『ぼく』がいたというだけかもしれません。『ぼく』が人魚の本当の顔を知らなかったとはいえ、知らず知らずのうちに人魚の食糧庫としての道を歩んでいたということは無意識のうちに人魚に『食べられたい』という欲求が人間のどこかにはあるのかもしれません。

 

 

さて文献や創作における人魚の加害者としての面を振り返ってみましたが、イメージよりも加害者としての面が多かったのではないでしょうか、アンデルセンの人魚姫のように可憐で不憫な被害者的人魚像ばかりではないということです。ヴィック・ド・ドンテ著の『人魚伝説』は最後に人魚について

 

「なぜなら、人魚は女性の原型だからだ。あらわな胸は、男たちに全てを許すようだが、その冷たい魚の尾に彼らは不本意ながら、逆のことを悟らされる。この異質のものが入り混じった姿態こそ、その第一の特質、誘惑と拒絶のとの洗練された戯れの象徴なのだ。」

 

と、述べられています。このように相反する性質-アンビバレンツ(両価性)な存在であることが人魚が現代まで語り継がれてきた理由の一つであり、人間に対する感情の面においても『殺意』と『憧憬』というアンビバレンツな性質を併せ持っていることが人間にとって魅力的なのではないでしょうか。

どちらが人魚の本当の面なのか、ではなく、どちらも人魚の面なのでしょう。そう考えると天外魔境Ⅱで人魚の島を見ただけで溺死した男は、何か人魚の心を傷つけるようなことをしてしまったか、もしくは…………運が悪かった?

 

 

 

 

参考・引用文献

 

九頭見和夫 『日本の「人魚」像『日本書紀』からヨーロッパの「人魚」像の受容まで』 和泉書院 2012年

 

𠮷岡郁夫 『人魚の動物民俗誌』 新書館 1998年

 

田辺悟 『ものと人間の文化史 143・人魚(にんぎょ)』 法政大学出版局 2008年 

 

ヴィック・ド・ドンデ著 荒俣宏監修『人魚伝説』 創元社 1993年

 

安部公房 『無関係な死・時の崖』 新潮社 昭和49年

 

小川未明 『赤いろうそくと人魚』 青空文庫 底本『文豪階段傑作選 小川未明集 幽霊船』 ちくま文庫 筑摩書房 2008年

 

 

参考・引用ウェブサイト

 

歴戦の記録 http://www.reilou.sakura.ne.jp/tengai/index.shtml