『わらわ』とはまぐり姫 役割語の魅力

 いきなりですが、皆さんは役割語という言葉を聞いたことがあるでしょうか?おそらく知っておられる方はそれほど多くは無いかと思います。しかし、役割語という言葉自体は知らなくとも、きっと皆さんにとって馴染み深い言語であると思います。一つ、役割語を説明するための例文を出しましょう。以下の文章を読んでどのような人物の発言であるか頭に思い浮かべてみてください。

 

『おぉ、それはわしが造ったものじゃ。随分と苦労したのじゃが、これがあれば世の中はもっと便利になるじゃろう。』

 

 さて、どんな人物像が浮かんできたでしょうか。おそらくそれは男性の『老人』ではないでしょうか?『老人』以外にもヒゲを生やして眼鏡をかけた『博士』が浮かんだ人もいるかもしれません。しかし、これ不思議だと思いませんか?何の補足説明もなく、上記の短い文章だけでそれを発している人物像を思い浮かべることができるのです。そもそも創作作品における『老人』や『博士』は決まって語尾に「じゃ」を付け、一人称は「わし」となっています。これも変な話であり、その老人や博士が岡山や広島の生まれであれば、こういう言葉遣いをするのもわかりますが、九州や東京、北海道に住んでいる方々の周囲の老人はこんな話し方をしているでしょうか?不思議なことに日本全国どこに住んでいたとしても『わし』『~じゃ』と聞けば、『老人』や『博士』の顔が思い浮かぶようになっています。

 博士にしても、博士(博士号を取得しているというより、何かを開発・発明しているポップカルチャーによく出てくるあの博士)が周囲にいる人はそれほど多くはないかと思いますが、ニュース番組等のメディアに登場する博士が語尾に『じゃ』など付けているでしょうか?

 このように現実性、実在性においてかなり怪しい言葉遣いであるにも関わらず、私達はそれを聞くと自動的にとある人物像が脳裏に浮かぶようになっています。

 このような言語の概念こそが、冒頭で述べた『役割語』であり、これは日本語学者の金水敏が提唱したものになります。金水氏は、役割語について以下のように定義されています。

 

 

ある特定の言葉づかい(語・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることがあるとき、あるいは特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。

                

  金水敏 「ヴァーチャル日本語役割語の謎」より引用

 

 

 もう少し例を上げてみましょうか。あなたは今、漫画(小説でも可)を読んでいます。そこに女性が登場し、主人公の主張に対して反対意見を述べています。さて、その女性を頭の中で喋らせてみてください。

 それは以下のような内容ではないでしょうか?

 

「まぁ!そんなの私は反対だわ。そんなことをしたらとんでもないことになるじゃないの。みんなも反対よね?」

 

 概ねこんなところではないでしょうか?一人称の『私』、語尾の『わ』や『ね』など女性の喋り方といえばこのような言葉遣いが真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、あなたの周囲の女性はこんな喋り方をするでしょうか?私はこの役割語という概念を知った後に試しに職場の女性たちの喋り方を注意して聞いたことがあります。その結果、女性特有の喋り方など存在せず、ほぼ男性と同じ喋り方でした。(これは方言社会であることも大きいかと思います。)

 

 前述した『老人』や『博士』は独立したキャラクター性が強い存在であるので固有の役割語がイメージしやすいかと思いますが、『女性』という非常に大きな括りにおいても役割語は該当します。これは性差や年代だけでなく、完全に非現実的な言語、例を上げるなら地球にやってきた宇宙人(ポップカルチャーにおけるクラシックな宇宙人)の喋り方といえば『ワレワレハウチュウジンダ、コノホシヲシンリャクシニキタ』と文字にすればカタカナになり、抑揚のない発音をしていると思われますが、誰も宇宙人など見たこともないのにこの様な喋り方を聞けば「あぁ、これは宇宙人だな。」と思うことができるのです。(さすがにこの宇宙人像はレトロ過ぎる気もしますが…)

 つまりは役割語とは創作世界における一種の『ステレオタイプ』に他なりません。ステレオタイプとは、ある集団、民族、地域、国家等に対する固定観念や思い込みのことであり、ステレオタイプの存在は話をわかりやすく、そして面白くしてくれるものですが、その反面、対象の持つ個別性を無視した考えでもあり、差別や偏見の温床になっているのも事実です。

 ではなぜ、そのような問題を含んでいるステレオタイプ役割語は、創作世界において必須とも言えるほどの地位を築いているのでしょうか?金水氏は役割語を使用するキャラクターは脇役が多いと指摘したうえで次のように述べています。

 

 

脇役とは、すなわち読者があまり関与する必要のない人物なので、カテゴリーベースのモードで十分であり、このモードの処理に適するように、作者はステレオタイプに従った人物描写をすれば十分である。しかし、主たる登場人物については、個人化された、深い処理を読者に要求しなければならない。そのためには、むしろステレオタイプを破って、読者の注意を引きつける必要があるのである。逆にいえば、カテゴリーベースのモードしか読者に要求しないような作品は、結局常識的なステレオタイプの域を脱することができないのであり、その意味でB級作品たらざるを得ない。

               

  金水敏 「ヴァーチャル日本語役割語の謎」より引用 

 

 

 

 つまり、カテゴライズされた言語=役割語さえ使用していれば、それだけで受け手は特定の人物像が思い浮かぶのであり、作り手側にとっても役割語を使えばそれ以外の深い描写を必要としない訳です。(つまり作り手と受け手どちらにとっても気楽)

 逆に主人公的なキャラクターに対して受け手は感情移入の度合いを高める必要があるため、役割語の必要性は脇役に比べて低くなるわけです。また、役割語ステレオタイプ的言語)は、漫画、アニメ、大衆小説など比較的対象年齢が低い作品において特によく使われていますが、それに対しても金水氏は以下のように述べています。

 

 ここで、「養育者や周囲の環境」とは、たとえば親が読み聞かせる昔話や童話、そして子供自身が読む絵本、漫画、児童読み物、頻繁に目にするテレビやビデオの子供向けアニメ、ドラマの類であろう。これらの作品では、受け手の子供に深い個人ベースのモード処理が期待できないので、カテゴリーベースの描写が中心となる。結果として、作者が持っているステレオタイプ的知識があふれかえることになる。すなわち、役割語満載である。そういった作品を繰り返し繰り返し受容することで、子供の知識の中に文化的ステレオタイプが強固に刷り込まれていくのである。

 

 つまり、子供はある対象に対する情報処理能力が低く、個人、集団、組織を個別化して自らの知識に取り込むことが難しい、だから、言語的ステレオタイプである役割語という一種の消化装置の助けを借りて、大まかにカテゴリー化して自らの知識に吸収しやすいようにしているのである。そして幼少期からそのようなカテゴリー化を続けていき、それが当たり前となった結果、大人になって個人化された深い処理が可能になっているのに、ステレオタイプ化された言語=役割語が真っ先に思い浮かぶようになっているのではないでしょうか。

 

 さて前置きが長くなりましたが、例によって例の如く天外魔境に話を切り替えたいと思います。天外魔境Ⅱもテレビゲームというポップカルチャーの一つであるため、役割語は重要な役割を果たしています。

 天外Ⅱの物語が幕を開けてから一番最初に役割語を駆使しているキャラクターといえば『タイクーン』ではないでしょうか?高山祭が始まる前にタイクーンに話しかけなければならず、その悠長で厭味ったらしい喋り方が特徴的かと思います。タイクーンの第一声ですが

 

まろはタイクーンでおぢゃる

 

 となっておりますが、天外魔境を知らない人でもこの台詞を聞けば、おそらく「あぁ、顔に白粉塗って眉を丸く剃った公家風の男か。」と頭に思い浮かぶのではないかと思います。(人によってはおじゃる丸をイメージするかもしれません、笑。)タイクーンは明言はされていませんが、おそらく室町時代足利将軍家をイメージしているのではないかと思います。(花の御所とは史実においては足利将軍家の邸宅を意味する。)つまり、タイクーンは『武家』であると思われますが、使用している言葉は『公家』言葉という役割語になっています。

そもそも『まろ』や『おぢゃる(おじゃる)』といった公家言葉は、現実としてどのような言語で、創作においてどのような役割を持った言葉なのでしょうか。

 まず、『まろ』に関してですが、元来、「まろ」と「まる」は同源で、子供の自称・他称でしたが、上代以前から「~まる・まろ」のように人名にも用いられるようになったと考えられています。船の名前に「~丸」と名前が付けられているのもそれが語源なのだそうです。平安時代になると貴賤男女を問わず「まろ」が一人称代名詞として用いられるようになりましたが、時代が進むにつれて用例が減少していきました。それでも親密な女性に対して男性が用いたり、天皇が用いたりする例があるようです。おそらく一般には使用されなくなった一人称ですが、天皇(公家)は使用していたことが、一般層には印象的に映り、『まろ=公家』というステレオタイプに繋がり、役割語となっていたのかと思われます。

 『おじゃる』に関してですが、これは公家言葉において定番中の定番かと思います。現実の言語としては「おいである」が転じたもので、「居る」「ある」「来る」「行く」などの尊敬語、「~である」の丁寧語として中世から近世にかけて用いられていました。江戸時代になると、「上方語」として武士や僧侶、年配の町人といった「知識階層」という特定の位相にしか用いられなくなります。役割語において一般庶民が「おじゃる」を使わないのはこういった経緯も関係しているかと思われます。

 「おじゃる」にとって決定的であったと思われるのは、1987年に公開されてた映画『柳生一族の陰謀』の影響という説があります。劇中で公家の言葉として「~おじゃる」が使用されたことが、一般大衆にも大きな影響を与え、「おじゃる=公家」という役割語が確立されたとのことです。また、インターネット文化においてよくネタにされる『水戸黄門』の一条三位(だまりゃ!のあの人)の存在もインターネット世代にとって「おじゃる=公家」という印象を強くしているかとも思われます。

 さて、この役割語としての『公家言葉』ですが、どのような効果が期待されているのでしょうか。創作において登場する公家は毅然とした『正義』のキャラクターもいるかと思いますが、多くは容姿も言葉遣いも一般人とは大きく異なり、どこか滑稽感が漂っており、性格も尊大かつ傲慢かと思えば小心で、策謀を好みますが、『正義』の主人公が現れると急に弱気になるといった、『悪役』が多いのではないでしょうか。これはかつては政治の中枢を支配していた公家が、武家が大頭し、明治維新まで政治の場から遠ざけられていた事実も影響しているのではないかと思います。つまり、高貴かつ(一部から)尊敬されているにも関わらず、実際の力(政治力や武力)を持ち合わせていない、一般庶民からすると掴みどころがない、存在であったことも影響しているのではと、個人的には思います。

 前述したようにタイクーンはおそらく公家ではなく、武家である足利将軍家をイメージしていると思われますが、使用している言葉はまさしく公家言葉です。これはタイクーンの性格を見れば納得で、タイクーンは傲慢かつ尊大でありながら極めて小心な男として描かれています。タイクーン武家の頭領であると思われますが、公家的な滑稽感を演出するためにあえて公家言葉という役割語を使用しているのではないでしょうか。

 

 さて、このように天外魔境という世界観においても役割語は重要であることはわかりましたが、これまでのことは全て前振りに過ぎません。いつものことですが、本題としてはまぐり姫の話を始めたいと思います。

 はまぐり姫!その圧倒的な美貌と気高さを感じさせる精神性、多くの家来にかしずかれていることから分かる高貴な階級(なんせ名前に姫と付いているのだ)、彼女の外見からイメージされるのはポップカルチャーにおいてはエースをねらえのお蝶婦人、史実においてはマリー・アントワネットに代表されるブルボン朝の女性ファッションなどではないでしょうか。前述したどちらにも共通しているのは所謂『お嬢様』の印象が強いということでしょう。(実際にこのようなお嬢様が実在しているかではなく、あくまでステレオタイプとしてのお嬢様。)

 はまぐり姫のブロンドの髪と特徴的な縦ロールなどまさしく『お嬢様』的ですし、ワダツミ五人衆という下僕(召使い)がいることからも分かるように階級的にも『お嬢様』なのでしょう。(以前にも触れたことですが、根の将軍で部下が重要な意味を持っているのは、はまぐり姫くらいだと思います。菊五郎のは部下ではなくお友達だそうなので)

 さて、ここまで長々と役割語について語ってきましたが、勿論はまぐり姫においても役割語は非常に大きな役割を果たしています。はまぐり姫が初めて卍丸の前に姿を現した時の台詞は以下になります。

 

わらわはこの幻夢城を預かる

はまぐり姫じゃ!観念いたせ!

 

 

 この一文を読んだだけでも非常に特徴的かつ浮世離れした喋り方であるのが分かりますね。冒頭でも博士語・老人語として語尾に「~じゃ」を付ける役割語を紹介しましたが、当然のことながら、はまぐり姫は老人でも博士でもありません。これは役割語で分類されるところの『武士言葉』が使用されているのではないでしょうか。繰り返し申しますが、実際に武士が喋っていた言葉ではなく、あくまで役割語において「武士が喋っていそうな言葉&それを喋れば武士の姿が頭に浮かぶ」言葉です。武士言葉の例を上げてみると拙者、それがし、そのほう、おぬし、致す、~ぞ、~じゃ…といったところでしょうか。後で詳しく触れますが、はまぐり姫の一人称は「わらわ」ですが、二人称は「お主」という古風な印象を受ける言葉であり、武士言葉的な表現と言えるでしょう。

史実で言えば武士とは男性を指す階級であり、我々が武士と聞いてイメージするのもその大半は男性でしょう。その武士言葉を女性であるはまぐり姫が使用しているのは、おそらく武士がかつての社会において最上位の階層であったこと及び「武士は食わねど高楊枝」に表現されるような気位の高さ、精神の清潔さを武士言葉という役割語を使用することではまぐり姫というキャラクターに付加させる狙いがあったのではないでしょうか。

 さらにはまぐり姫における役割語において武士言葉より重要なのが、お姫様・お嬢様言葉かと思われます。お姫様・お嬢様言葉といえば、「あら」「ごめんあそばせ」「よくってよ」「~ね」「~わ」「おほほ」…といったところがイメージされるでしょうか。しかし、これらはお姫様といってもマリー・アントワネットのような西洋的お姫様の方をイメージされるのではないでしょうか?お嬢様にしてもこういった喋り方をしているのは明治時代以降の西洋的価値観が入ってからのお嬢様のイメージが強いのではないでしょうか?

 はまぐり姫が使用する役割語の場合、お姫様・お嬢様言葉といっても西洋的価値観が入ってくる前の江戸時代までのお姫様・お嬢様がイメージされたものかと思います。その日本的お姫様・お嬢様の一人称の定番といえば、はまぐり姫も使用する『わらわ』かと思われます。『わたし・わたくし』のパターンもあるかと思いますが、『わらわ』の方がより気位が高く、自分の容姿や階級に強い自信を持っている印象を受けます。個人的には手塚治虫火の鳥に登場する卑弥呼が『わらわ』を使用していたのが、印象深いです。火の鳥卑弥呼邪馬台国の女王という社会の最上位に位置する階層であり、不老不死の夢に憑りつかれた傲慢な人物として描かれていました。

 では、役割語の提唱者である、金水氏による『わらわ』の説明について少し長くなりますが、引用したいと思います。

 

 

この項目では、女王様やお姫様、魔女、巫女など、他者を従わせる立場にある女性が用いる一人称代名詞(〈女ことば〉〈お姫様ことば〉)を取り上げる。

特に、自らの身分や権力を背景にして自分自身に相手が従うことを当然だと思っている人物が用い、高圧的、わがままといった印象を伴う。断定の助動詞「じゃ」、打消しの助動詞「ぬ」、補助動詞「おる」といった、〈老人語〉と共通の表現と共に用いられることが多く、発話者の身分の高さや印象の古めかしさ、態度の尊大さを印象付ける。

                   

    金水敏編 〈役割語〉小辞典

 

 

…どうです?もう完全にはまぐり姫の喋り方に当てはまりませんか?はまぐり姫の台詞数はそう多くは無いのですが、『わらわ』という一言だけではまぐり姫というキャラクターの人物像を説明してしまっているのですから、『わたし』『わたくし』ではなく、『わらわ』を選んだスタッフの皆さんのセンスはやはり凄いですね。…いや本当にこの金水氏の『わらわ』の説明は、はまぐり姫の事を言っているのかなぁ~と思ってしまうくらい完全に当てはまっていますね。『他者を従わせる立場にある女性』は、ワダツミ五人衆という部下がいますし、老人語と共に用いられるのも当てはまります。『発話者の身分の高さや印象の古めかしさ』に関しても何と言っても「姫」なのですから、そのまま当てはまるでしょう。

  役割語としての『わらわ』は前述したような意味を持った言葉ですが、それでは実際の歴史的言語としての『わらわ』はどのような言葉だったのでしょうか?見つけることのできた資料は少ないですが引用します。(田舎の何が不利かといえば図書館の蔵書が少ないことですね、こういう点は東京の方が本当に羨ましいです…)

 

もとは「童(わらわ)のような未熟者、幼稚な者」の意味で用いられた謙遜した言い回しであり、平安時代頃から見られる。主に女性が、身分にかかわらず、広く用いた。

                    

   金水敏編「〈役割語〉小辞典」より引用

 

 

(代)一人称。女性が用いる。「Varaua(ワラワ)。私。女性のことば」(日葡)「第一人称の、Eu〈わたくし〉など原形代名詞のさまざあな段階について…「ワガ身」「ミヅカラ」「ワラワ」。女のためのEu

 

        「時代別国語大辞典室町時代編五 へ~ん 三省堂」より引用

 

わらわ1⃣【〈妾〉】(代)[童ワラワのような不束者、の意で、女性の謙称]封健時代、身分の有る女性、特に武家の子女の自称。[ごくまれに、男性も使用]

             「金田一京介 新明解国語辞典 第五版」より引用

 

この程度しか資料が見つけられなかったのは情けないですね…もっとあちこちの図書館を訪ねないと駄目ですね。それはそうと『わらわ』の実際の言語としての意味は上記のようになりますが、ここで注目なのが、『わらわ』とは、「謙遜した言い回し」、「女性の謙称」とあるように実際には自分を低くし、へりくだった表現、つまり『謙譲語』だったのです。これは役割語としての『わらわ』のイメージからすると非常に意外であり、前述したように役割語の提唱者である金水氏は『わらわ』について「自らの身分や権力を背景にして自分自身に相手が従うことを当然だと思っている人物が用い、高圧的、わがままといった印象を伴う。」と述べており、事実、各種創作における『わらわ』は、金水氏が定義した使い方にほぼ沿っていると思われますが、実際には『高圧的、わがまま』とは真逆と言っても過言ではない、自らを低くへりくだる表現だったのです。

 役割語としての意味と実際の言語としての意味に大きな隔たりが見られることは創作において珍しいことではありません。ではなぜ、『わらわ』という役割語は、本来の意味とは真逆の使われ方をされるようになったのでしょうか。金水氏は次のように述べています。

 

 仮名垣魯文の戯作『高橋阿傳夜叉譚』(一八七九[明治十二]年)では、悪女阿伝のせりふのうち「わらは(わ)」は筆者(仮名垣魯文)の視点から間接的に発話の内容を記した部分にのみ用いられ(中略)この頃には、女性の自称詞の中でも「わらわ」は、文語的な、格式ばった、古めかしいイメージを持たれるようになっていたのであろう。

明治時代後期以降の戯曲・小説になると、主に、江戸時代以前の日本を舞台にした時代物に登場する女性が用いている。これらのことから、明治時代の終わりの頃には、「わらわ」を用いる発話者と言えば、当時の一般女性とは一線を画する古めかしい印象の女性が想起され、現代の役割語につながる基盤ができあがっていたと考えられる。

 

                  金水敏編「〈役割語〉小辞典」より引用

 

 

 小説以外にも明治時代以降の歌舞伎においても『わらわ』が使用されているようです。つまり、明治時代以降になると実際の会話の中で『わらわ』という一人称の使用頻度が低下しており、耳にすることが少ないゆえに、古めかしさや格式ばった印象を世間一般としても受けるようになり、小説や歌舞伎といった創作において古めかしく、格式ばった女性を表現するるために『わらわ』という役割語が生まれたというわけです。そしてその流れは戦前・戦後の創作界にも引き継がれ、天外魔境Ⅱのはまぐり姫につながっているわけですね。

  それでは『わらわ』とは、実際にはいつ頃から使用されていた一人称なのでしょうか。ちなみに天外魔境の舞台であるジパングは、タイクーン足利将軍家をモデルとしている(根拠は花の御所という共通点だけですが…)こと、『藩』という概念が存在せず、『国』単位で治められていること、南蛮の宣教師や商人が活動していることなどから考えて室町~安土桃山時代がイメージされていると思われます。まず、金水氏は著書の中で「平安時代頃から見られる」と述べています。平安時代からと言われても大雑把ですから、もう少し調べてみました。『時代別国語大辞典 室町時代編五へ~ん(三堂省)』には、『わらわ』が女性の一人称として説明されていますので、室町時代には既に『わらわ』は一人称として実際に試用されていたと思われます。次にぐっと時代が古くなりますが、同じく『三省堂時代別国語大辞典』の『上代編』です。上代とは、文献が残されている時代以降を指し、7,8世紀の奈良時代の言語を指すことが多いそうです。文献が残されている最古の時代のものであるから、当然のことながら言語、会話を調べるのにこれより古い情報は存在しません。(それ以前は文字が無いのだから、口伝しかありませんし)この上代編にも『わらわ』の項目は存在します。しかし、それは一人称としての『わらわ』は載っておらず、その原型である、童子・小児を意味する『わらわ(童)』のみ載っています。一人称の『わらわ』とは、前述したようにへりくだった表現ですが、元々は「わらわ(童子・小児)のような若輩者が~」と謙譲した表現から変化していったものだと思われます。つまり、最古の文献時代である、7,8世紀の奈良時代には一人称としての『わらわ』は、存在していなかった可能性が高く、室町時代編に載っていることから、奈良時代室町時代のどこかで一人称としての『わらわ』は発生したのだと思われます。であるならば、引用した三省堂時代別国語大辞典の平安編・鎌倉編が読みたいところですが、インターネットで検索しても上代編と室町編しか出版されていないようです。他の時代別の辞書を調べるしかありませんが、私が探した限りではこれ以上の資料を見つけることができませんでした。(だから、大きな図書館がある街に住んでいる人が羨ましい…)

 さてここまで長々とはまぐり姫の『わらわ』という一人称について調べてきましたが、私がここまで『わらわ』に惹かれたのは、はまぐり姫本人とのギャップがあったからに他なりません。はまぐり姫はブロンドのロングヘアーにツインテール、豊満な肉体といかにも西洋的お姫様、お嬢様といったルックスでありますが、それでありながら使用する一人称が『わらわ』という極めて古めかしく、日本的な表現であるというギャップが産み出す魅力に小学生の私は一発でヤラれてしまいました。一人称の使い方と意味など些細な事かもしれませんが、こういう細かい部分に迫ることで、はまぐり姫というキャラクターの魅力がさらに増していくのだと思います。また、役割語について調べていくうちに本来の言語学上の意味と創作で親しんでいる役割語との間に様々な差異があることを発見できたのも非常に面白かったです。

 さらに役割語という概念はなぜ卍丸は火多(飛騨)白川郷の育ちでありながら、『共通語』を喋り、白川の方言を使わないのか?という、疑問にも答えてくれている気がします。(同じくカブキも多少、男性言葉が強調されているのみで基本共通語ですし、絹は女性言葉寄りの共通語です。極楽に関しては少し老人語が入っていますが、これは卍丸から見て年長者であることが影響しているのでしょう。)

 最近、他の方々の活動に触発されて自分の中でちょっとした夢が生まれてきました。そのためにもまずは図書館に通って資料を集め、舞台巡りもどんどん行かなければなりません……コロナ騒ぎさえなければなぁ、もっと計画が進むのですが…

 

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とっても面白い本でした。漫画や小説を読む際の調味料的な魅力がありますね。

 

 

 

 

参考文献

金水敏 ヴァーチャル日本語役割語の謎 岩波書店 2003年

金水敏 〈役割語〉小辞典 研究社 2014年

金田一京介 新明解国語辞典 第五版 2002年

時代別国語大辞典 上代編 三省堂

時代別国語大辞典 室町時代編五 へ~ん 三省堂