人魚は涙を流すかー天外魔境Ⅱと人魚の涙

天外魔境Ⅱ卍MARUの登場人物の一人『極楽太郎』は千年前の火と根の戦争の際に恋人であった人魚『千代』の涙を飲むことで千年の寿命を得ることとなり、千年後に卍丸たち火の勇者と出会い、打倒ヨミに力を尽くすことになっています。人魚の涙を飲むことで長寿を得るというとロマンチックな印象を受けますが、越前国の人魚村にいる人魚の一人がこのような台詞を言います。

 

「私もそうだけど人魚って普通は一生に一度も涙を流さないのよ それをそいつは飲んだ…」

「千代って人魚が死んだって聞いたわ よほどひどいことをして涙を出させたにちがいないわ」

 

 つまり天外魔境の世界観において人魚が涙を流すことは非常に珍しいことであり、人魚からしても死ぬような酷い扱いを受けてやっと涙が出るような認識である、ということです。

この「人魚の涙は非常に珍しいものである」という設定は天外魔境独自のものなのか、それとも人魚についての文献や伝承にもみられるものなのか、ここでは人魚の涙について考察していきたいと思います。(妄想やこじつけとも言う)

※なお本文は参考にした小説の結末に触れていますのでご注意ください。

 

『古今著集』橘成季著

古今著集は鎌倉時代中期(西暦1254年)に橘成季により編集された説話集(伝承、伝説、民話などをまとめたもの)であり、奈良時代鎌倉時代までの説話が収録されています。人魚の涙について触れられているのは巻第20第30編第712段にあり、題名は「伊勢国別保の浦人人魚を得て前刑部少輔忠盛に献上の事」です。長文であるため一部のみ抜粋します。

 

「或日大なる魚の、かしらは人のやうにありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、(中略)たかくをめくこゑ人のごとし。又涙をながすも人にかはらず。」

 

と記述があり、鎌倉時代には既に人魚とは人間と同じように涙を流す認識があったことがわかります。ただし、現代の私達は人魚というと「上半身は若く美しい女性であり、下半身が魚類」というイメージに直結してしまいますが、当時(鎌倉時代)においての人魚とは中国からの文献(山海経など)に影響を受けていると考えられ、その実態も人魚というより人面魚と呼びたくなるような姿であり、サンショウウオや鯰に近いものであったと考えられます。(南方熊楠山海経における人魚とサンショウウオの関係を指摘している。)

 

『ザン(人魚)』沖縄県の伝承

ザンは沖縄県石垣島における伝承上の人魚であり、『水木しげるの妖怪辞典』(東京堂出版)では現代の私達が『人魚』と聞いてイメージするように上半身は美女、下半身は魚類という容姿となっています。1700年代の頃、石垣島の野底村の若者たちが浜辺で遊んでいるとどこからか美しい女の声が聞こえてきた。不思議に思った若者たちが翌日、船を出し漁に出かけ、仕掛けていた網を引くと何か重いものが掛かっている。数人がかりで何とか引き上げると、何と美しい人魚が網にかかっていた。若者たちが「良い土産ができた。」と喜んで浜に帰ろうとするとザンは突然泣き出し、大粒の涙を流してすすり泣きながら「私は空気中では生きていけません。」と若者たちに訴えた。不憫に思った若者たちはザンを海へと帰した。するとザンは助けてもらったお礼だと言って、間もなく大津波が村を襲うと若者たちに伝えた。若者たちはすぐに村へ帰り、村人たちと一緒に山の上に避難することで命拾いすることができた。

 というのが石垣島に伝わるザンの伝承です。上記した通り、このザンと呼ばれる人魚は普通に涙を流しています。短い伝承ではありますが、ザンとは下半身が魚類なだけで他の心理面等は人間とほぼ変わらない印象を受けます。(容姿も水木先生が沖縄という土地柄を意識したのか非常にエキゾチックで印象的です。)

しかし、ここで重要なのが、人魚の涙という主題から離れてしまいますが、「間もなく大津波が村を襲うと若者たちに伝えた。」という部分です。つまりザン(人魚)は未来予知の能力があったということです。世界中に様々な人魚伝説があり、私も人魚伝説に関する書籍を複数読みましたが、人魚に予知能力があるとしているのは珍しいことだと思います。天外魔境Ⅱでも極楽太郎の恋人「千代」は極楽に「あなたは千年生きろ」と伝えて自らの涙を飲ませた、とされていますが、「千代」は千年先に火と根の戦いが再びあることを予知したのではと考えられます。ただしこの予知能力は人魚族特有の能力というより、火の一族の血による能力ではないかと考えられます。絹も何度か未来予知と思われる発言をしていますし、人魚村の人魚も

 

「ねぇ 火の一族の血って本当に予知能力も出るの?」

 

と発言していることから、やはり人魚の能力ではなく火の一族の能力と言うべきでしょうか。ただ、どちらにせよ『人魚』の千代が未来予知できたことは確かであり、他の火の一族である卍丸、極楽、カブキにそのような能力は確認できないことから、天外魔境Ⅱの世界観において人魚は未来予知ができるとしても間違いではないと思います。

しかし、調べていくうちにザン以外にも江戸時代の瓦版に人魚が人々の前に現れて災害や伝染病の発生を予言した。という内容のものがあるようです。『人魚と予言』については改めて考察していきたいと思います。

 

パラオ諸島の人魚伝説』

田辺悟著の『ものと人間の文化史 人魚』によれば、パラオ諸島は人魚のモデルの一つとされるジュゴンが多く生息しているため、人魚伝説が数多く語り継がれているそうです。その中でも人魚の涙について触れられている伝承として人魚が

「月夜の晩になるとランプの灯を求めて波打ち際までやって来て、悲しそうに泣く」

という話が紹介されています。

 

滋賀県蒲生町・願成寺の人魚』

滋賀県にある願成寺には人魚のミイラが安置されています。この願成寺の開基は聖徳太子とされています。聖徳太子といえば冠位十二階や十七条憲法などでお馴染みの人物ですが、人魚とも関りがあります。伝承では聖徳太子は琵琶湖のほとりにある寺にこもり十七条憲法の草案を起こしていたある日、琵琶湖のほとりを歩いていると突如として湖の上に人魚が浮かび上がってきた。その人魚曰く「自分はこの湖で長年にわたり漁師をやっていたが、多くの魚などを殺したので、殺生の罪でこんな姿に生まれ変わってしまった、この姿を後世に伝えて、殺生の恐ろしさを人々に教え、伝えてほしい」と言い終わると昇天してしまった。聖徳太子はこの人魚を琵琶湖に近い石山寺に運び、祀った。

というのが聖徳太子と人魚の伝承です。余談になりますが、人魚=海の生き物という印象が強いですが、古い記録や伝承には淡水に住む人魚もいます。これは古い時代にはサンショウウオや鯰が人魚であると認識されていたからではないかと思います。時代が進むにつれてサンショウウオや鯰の生態が明らかになっていったことで淡水の人魚は姿を消していったのではないかと。天外魔境Ⅱにも人魚村が二つ登場しますが、どちらも海に面していますからね。

話を戻して願成寺の人魚伝承を説明します。

 

「かつて願成寺には非常に美しい尼僧がいた。美しいだけでなく心も清らかな尼僧に誰もが好意を持っていたが、ある日何処からともなく一人の小姓が現れて甲斐甲斐しく尼僧の世話をするようになった。最初は微笑ましく思っていた人々も次第にその小姓を怪しむようになった。ある日、寺武士の一人が小姓の後を付けるとその小姓は佐久良川に飛び込んで消えてしまった。驚いた寺武士が、村人を呼び集めて網を投げ込むと魚のような人のような人魚が掛かっていた。獣でありながら仏に仕える尼僧に懸想するとはけしからん、と最後には村人たちによって人魚はミイラにされてしまった。それ以降人魚のミイラは見世物として各地を転々とした。しかし、人魚のミイラは夜になると止むことなく泣き続けて人々の心を狂わせた。たまりかねた人たちの手により、供養のためにかつて人魚が懸想した尼僧が眠る願成寺に帰された。」

 

というのが願成寺の人魚伝承です。この人魚は人間の女性に対する愛の証として涙を流し続けたことで最後には願いが叶ったというお話ですね。話がそれますが、人魚と人間の恋では大半の伝承が『人間の男が人魚の女に惚れる』というものですが、この伝承の場合、その逆パターンで非常に珍しいと思います。

 

 

『人魚伝』安部公房

安部公房(1942~1993)は『砂の女』などの代表作を持つ小説家であり、人魚が登場するのは昭和37年に発表された小説『人魚伝』です。この『人魚伝』において人魚の涙は非常に重要な要素であり、人間が人魚の涙を飲むことで発生する衝撃的な変化についても触れられているなど、全編にわたり人魚の涙について迫っている作品となっています。以下『人魚伝』のあらすじを説明します。

 

サルベージ調査の仕事をしている『ぼく』はある日の仕事中に沈没した船の中で緑色に輝く人魚と出会う。その人魚にどうしようもなく惹きつけられた『ぼく』は「人魚」に食料として牛肉をプレゼントしたり、追いかけっこをして遊ぶなどの交流を持つにつれて人魚をアパートに連れ帰りたくなった『ぼく』は計画を練り、苦労を重ねた末に自分のアパートに人魚を連れ込むことに成功する。そして人魚と『ぼく』の同棲生活が始まるのだったが…

 

安部公房の極めてドライな文体が人魚と人間の異様な同居生活と衝撃的な結末を徹底した細やかな描写で描き出す傑作であり、私が最近、人魚に関する本を数多く読んできた中でも最大の収穫と言える作品でした。引き続き『人魚伝』における人魚の涙に関する描写を一部引用します。

 

「なにしろ彼女の下半身は魚なのだ。下腹部に、産卵用とおぼしき穴はあいていたが、そんな穴なら、耳にだって、鼻にだってあいている。それ以上、ぼくに、何ができただろう。僕の情念は、もっぱら彼女の眼に向けられていた。単に精神的にだけでなく、肉体的にもだ。ほかにしようがなかったせいもあるが、彼女の眼を舐め、涙を吸うのが、毎日くり返される、最高の快楽になっていた。」

「ぼくたちの性は、眼と唇の接触をつうじて、満たされていたようなものだった。」

 

 

これは人魚と人間との恋について考えるときに問題となる「人魚は下半身が魚なのにどうやって人間と性交をするのか?」という疑問に対する安部公房からの答えなのではないかと思います。勿論、性交を必要としない恋もあるでしょう。しかし、男女の恋において性交を完全に無視するのはそれはそれで不自然です。安部公房は人魚の眼と眼から流れる涙を男が舐めて吸うことをセックスの暗喩として表現しているのではないか。(というかそのようにしか読めない)…なんだか下世話な話になりつつありますが、天外魔境Ⅱの押水村にいるモブキャラの一人がこの問題についてと思われる台詞を語ります。

 

「人魚ってのはそんなにいいのかね でもどうやって?なあ?おい!!ほら半分魚なわけだしなぁ

どうやって!?

二人は出会ったんだろうなんて考えちゃうよな だろ?」

 

 

「どうやって!?」でワンクッション置いているのが意地が悪いというか(笑)これは明言していませんが、どうやって人間の男と人魚の女がセックスするのか?という疑問を投げかけているわけですよね?(違っていたら相当恥ずかしいことを言っていると思いますが…)

ただ、天外魔境Ⅱでシナリオを担当された桝田省治さん曰く「もっと下世話に、もっと猥雑に」が天外魔境Ⅱのコンセプトだそうなので、やはり上記の台詞は人間と人魚の性の問題について語っているのではと思うのです、

天外魔境Ⅱの世界においても三太と極楽は人魚の女と結ばれるわけですが、当然「そういう」疑問は付いて回るわけで、安部公房の『人魚伝』はその疑問について一つの答えを与えてくれる非常に重要な作品ではないかと思います。

そして『人魚伝』における人魚の涙はもう一つ重要な意味を含みます。再び人魚伝のあらすじに戻ります。

 

アパートに人魚を連れ帰り奇妙な同居生活を始めた『ぼく』は数か月後、アパートの風呂場でとんでもないものを発見してしまう。もう一人の裸の『ぼく』がいたのだ。真実はこうだ、人魚は『ぼく』を食料としか見ておらず、風呂場で『ぼく』の肉を喰らい栄養を補給していた。それだけなら『ぼく』は食い殺されてお終いである。ところがなんと人魚の涙には人間の肉体を再生させる力があったのだ。これにより『ぼく』は人魚に食い殺されては涙の力により再生し、いつのまにか尽きることのない人魚の『食料』になっていたのだった。(この時は人魚が『ぼく』の一部を食い残してしまったため、『ぼく』と『ぼく』が対面することとなった)

 

つまり安部公房にとって人魚の涙とは「人間の肉体を再生させる力を持つ。」ということです。人魚と長寿の関係であるならば八百比丘尼伝説(人魚の肉を食べた少女が八百年もの寿命を得たという現在の福井県を中心として全国に広まっている伝説)がありますが、人魚の涙により人間が不老不死の肉体を得る、という設定が昭和37年の時点で既に創られていたことがわかります。(勿論、肉体が再生することと長寿を得ることは厳密には同義ではないでしょうが、ここでは同じものとして語らせて頂きます。)

天外魔境Ⅱにおいても極楽太郎は恋人の人魚「千代」の涙を飲むことで千年の寿命を得ます。私はこれは八百比丘尼伝説がベースになっていて「人魚の肉を食べた」ではあまりに生々しすぎるため、綺麗な印象を受ける「涙」に変更したものだと思っていましたが、涙にも不老不死の力があるという解釈が既に文学界の一部には存在していたことがわかります。

人魚の涙や肉、脂などが持つ特殊な力についてはまた改めて考察していきたいと思います。

 

 

『人魚のひいさま』ハンス・クリスチャン・アンデルセン

現代の私達が持つ人魚のイメージに多大な影響を与えていると思われるのが、アンデルセンの作による『人魚のひいさま(人魚姫)』(以下、人魚姫と称す)です。自分の望むものを手に入れる代わりに大切なものを失い、それでいて臨むものは手に入らない、という悲劇的な物語は今も読者の胸を打つ名作です。(尤も人魚姫は単なる悲劇話ではありませんが)さて、現代人の人魚観に大きな影響を及ぼしているアンデルセンの人魚姫ですが、その中でも人魚の涙について触れられています。作中で海底の御殿に住む人魚の姉妹たちは祖母から「15歳になれば海の上へ浮かび出てもよい」との許しを得ます。六人の姉妹たちは全て年子であるため、長女から順番に一年ごとに海の上へと浮かんでいき、それぞれ思い思いの場所で見た人間世界の風景や風俗を海底の御殿で待つ姉妹たちに話して聞かせます。さて、この物語の主人公は末子(以下人魚姫と称す)ですから、当然海の上に行けるのは最後となります。姉たちに取り残されひとりで御殿で待つ娘は「なんだか泣かずにいられない気持ちに」なりますが、ここで

 

「けれども、海おとめには、涙というものがないのです。」

 

という作者(アンデルセン)からの説明が入ります。さらに人魚姫は海の上に出たときに船の難破事故で命を落としそうになっていた美しい王子を助け、王子に恋心を抱くが、異形(人間にとって)の存在である人魚が人間と結ばれることはあり得ないと知り、海の魔女に頼み込み、自らの美しい声と引き換えに人間の下半身を手に入れる。そして人間の世界に飛び込み、王子と一緒に暮らせるようになるのですが、声を失っているため自らの思いを王子に伝えることができません。このようなもどかしい思いを抱いた人魚姫は次のように思います。

 

「ここまでかんがえて、人魚のひいさまは、ふかいため息をしました。人魚は泣きたくても泣けないのです。」

 

ここでも再び、「人魚は涙を流せない」という作者(アンデルセン)からの説明が入ります。

つまりアンデルセンにとって人魚とは涙を流すことができない存在であるという認識があったわけです。現代の人魚のイメージに多大な影響を与えていると思われるアンデルセンの『人魚姫』ですから、この涙を流せないという設定も後の人魚像に影響を与えているのではないかと思います。

ただし、『人魚姫』において人魚は絶対に涙を流せない訳ではありません。

物語の終盤、人魚姫の王子への恋は叶わぬものとなり、王子は他の姫君と結婚することとなります。再び人魚に戻るためには王子をナイフで突き刺し、その血を浴びるという選択肢を海の魔女から5人の姉たち経由で提示されますが、人魚姫は王子と姫君の幸せを壊すことを拒否し、自ら海の中に身を投げ入れます。しかし、泡となって消えてしまう訳ではなく、人魚姫は大空の精霊に転生します。その時、他の精霊から300年の間、暑さに苦しむ人々には涼しい風を送り、花の香りをふりまいて人々をすこやかにするような仕事を務めあげることで人間と同じく不死の魂を授かることができると教えてもらいます。(そして人魚姫が大空の精霊に転生できたのは人魚姫が真心を持ち、苦しみに耐えてきたからである、ということも教えてもらう。)その事実を知った瞬間、人魚姫は―

 

「そのとき、人魚のひいさまは、神様のお日さまにむかって、光る手をさしのべて、生まれてはじめて涙を目にかんじました。」

 

となります。つまり、本来であれば涙を流せるはずのない人魚が自らの幸せよりも他人のことを考え、慈愛と献身の精神に目覚めることで初めて「涙」を得ることができる。ということであり、アンデルセンにとって人魚の涙とは『慈愛と献身の現れ』ではないかと思います。

 

 

さて、ここで天外魔境Ⅱの人魚の涙についてもう一度振り返っていきます。天外魔境Ⅱでは人魚は基本的に涙を流すことができないとされており、人魚達にとっても自分たちが涙を流すとしたら死ぬほど酷い目に遭えば涙が出るかもしれない、という認識です。その中で例外的に極楽太郎の恋人「千代」だけが涙を流します。なぜ千代が涙を流したのかは直接的な説明はありませんが、越前国の人魚村にいる人魚が極楽から聞いた話として次のようなことを語ります。

 

「その牢の中の男が言うには自分の恋人には火の一族の血が入ってて予知能力があったんだって……でその恋人が死ぬ間際に「あなたは千年生きろ」と遺言したってんだけど……」

 

これが事実であるとすれば(事実なのでしょうが)、千代はアンデルセンの人魚姫と同じく自分の命よりも恋人の事、そして千年先の世の人々の平和のために涙を流せないという『常識』を打ち破り、『愛と献身』精神に目覚めて死んでいったということなのではないでしょうか。

 

勿論これは私の妄想に過ぎませんが、1800年代にデンマークで生まれた御伽噺が1992年の日本のテレビゲームに影響を与えたのかもしれない、と考えると伝承や神話が大昔より語り続けられることの面白さを実感出来るんですよね。

そもそも現在の人魚のイメージ自体が紀元前8世紀に古代ギリシアの詩人ホメロスが「オデュセイア」に人間を誘惑する魔物「セイレーン」について記述したことが始まりな訳で、ホメロスの物語を人々が数千年に渡って語り継いでいなかったら、アンデルセンの人魚姫もはまぐり姫も存在しなかった可能性があるわけで…

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

九頭見和夫 『日本の「人魚」像『日本書紀』からヨーロッパの「人魚」像の受容まで』 和泉書院 2012年

𠮷岡郁夫 『人魚の動物民俗誌』 新書館 1998年

田辺悟 『ものと人間の文化史 143・人魚(にんぎょ)』 法政大学出版局 2008年 

ヴィック・ド・ドンデ著 荒俣宏監修『人魚伝説』 創元社 1993年

水木しげる 『水木しげるの続妖怪辞典』 三秀舎 昭和59年

安部公房 『無関係な死・時の崖』 新潮社 昭和49年

世界の童話全集・41作品⇒1冊 底本「新訳アンデルセン童話集第一巻」 同和春秋社 1955年

 

参考・引用ウェブサイト

歴戦の記録 http://www.reilou.sakura.ne.jp/tengai/index.shtml

AlfaSystem http://www.alfasystem.net/wwwp/