幻夢城においてはまぐり姫と卍丸達が初対面する際にはまぐり姫は幻術で白川村を完全再現し、卍丸の『母親』の姿に化けて現れ、卍丸達を罠にかけようとします。幻を操るはまぐり姫の本領発揮というべき印象的なシーンなのですが、これってよく考えると罠としてはどうなのでしょうか?根の城の内部に自分(卍丸)の故郷がいきなり出現して、しかも自分の母親までいるというのはいくらなんでも怪しすぎて罠として成立していなのではないでしょうか。(卍丸は幻夢城の城主が幻を操ることを事前に知っていますし)
肉親に化けることで相手の動揺を誘うというのは罠の方向性としては良いと思いますが、それなら卍丸の『母親』ではなく『父親』に化けた方が良かったのではないだろうか、卍丸の父親は作中で明確には語られていませんが、ヨミの復活を防ぐための旅に出て、その途中で行方不明になっていると思われます。ですから根の城に卍丸の『父親』がいるというのは十分に説得力がありますし、卍丸も久々に見る父親に対して大いに動揺した可能性があります。
であるのにはまぐり姫はあえて『母親』に化けて卍丸の前に現れました。
なぜはまぐり姫は『母親』でなければならなかったのか、今回はこのことについて考察(こじつけ)していきたいと思います。
さて、皆さんは『異類婚姻譚』という言葉をご存知でしょうか?この言葉を知らなくても「若い男のところに人間外の生物が若い美女に化けてお嫁にやってくる昔話」と聞けば、あぁあれね。と思うのではないでしょうか。この異類婚姻譚は説話、昔話においてお馴染みの題材であり、日本人なら親しみのある話でしょう。
有名なところでいうと鶴の恩返し(現代では人間側は老夫婦であることが多いようですが、原型である鶴女房だと人間側は独身の男)、はまぐり姫の原型の一つと考えられる蛤の草紙(小さな蛤を助けた独身の男のところにその蛤が美女になってやってくるお話)、雪女(雪女が正体を隠して独身の男のところに嫁にくるパターンもある)などがあるでしょうか。
アンデルセンの人魚姫も人魚姫と人間の王子様の恋は成就していないとはいえ、これも異類婚姻譚の一種ではないでしょうか。また、古事記にも山幸彦と海神宮殿の姫である豊玉姫(正体はサメ)が子供をもうける話が出てきます。(これが昔話浦島太郎の原型とされる)
他にも蛇女房、蛤女房(!)などの昔話が該当するでしょうか。では『異類婚姻譚』の基本的な流れを確認するためにいくつか説話、昔話を紹介します。少し長くなりますが、『異類婚姻譚』はその構成要素に共通するものが認められますので、これから展開する考察の基礎になると思います。
ではまずは『蛇女房』から紹介します。
(1)貧乏な一人暮らしの男が川嶺の村に用事があって出かけた際、坂の上で非常に美しい女と出会う。
(2)女は男にどこへ出かけると聞くので川嶺の村へ用事があって行くという。男も女にあなたはどこへ行くのかと訊ねると、これからあなたのところに行くところだと応える。「あなたのやうな心の良い人を、いつまでも一人暮らしさせるのは気の毒だから、ぜひ一緒に暮らしたいと思つて訪ねていくところです。」という。
(3)男は驚いて、あなたのような立派な女の人は自分ごとき貧乏な男にはふさわしくないと断るのだが、女はぜひ妻にしてくださいと無理に頼む。男は断り切れずに結婚を決意する。
(4)そうしているうちに妻が孕む。子を産む前になったところ、妻は「私が子を産むところは如何な事、見ては呉れるなよ」と夫にいう。
(5)日頃から妻に何か秘密があるなと勘づいていた夫は遠方に出かけるといって家を出るのだが、しばらくして引き返して家の中を覗いてみた。夫が帰らないというので安心した妻は大蛇になって三枚畳いっぱいに身体をはだけて立派な男の子を産んだ。
(6)妻は出産の場面を夫に見られたのに気付き、もはや隠しとおすこともできず、実は私は「川嶺溜池の大蛇である。お前の心が立派なので、跡取りを一人拵へて上げようと思つて人間の姿になって夫婦の道で暮らしたが、素性が知れたからにはここにゐる事はならない」という。
(7)それで妻は片方の目を抜き取って「それを毎日子供にしゃぶらせて育てヽ下さい」と言って、自分の眼の玉を抜いて夫に取らせ、名残惜しそうに姿を消す。
(8)妻の言われていたとおりに子を育てていたある日、川嶺の溜池の端まで来たら、池の上に鴨がたくさん下りているので、撃ち殺して子供に与えようと思い、思わず子供の持っていた球を投げつけた。玉は当たらず池の底に沈んでしまった。
(9)池のなかから大蛇が現れ、あの球は自分の片目を取ってあげたのだから大切にしてもらわないと困ると言い、子供の命にはかえられないから残りの眼玉を抜いて差し上げましょうという。この玉は大切にし、子供が成長したら大切に床の間に飾ってくださいと告げた。
(10)男は子供が成長すると、言われたとおりに玉を床の間に飾ったのだが、男の家は知らず知らず金が溜まり、村一番の金持ちになった。
(11)男をうらやんだ村の人たちが妬んで、男の金の溜まりようは尋常ではないといい、大勢寄って男の家に詰めかけた。床の間に立派な玉が飾ってあるのを見て、「この玉のゆわりぢや」といって、皆で無理に奪い取って行ってしまった。
(12)妻が両目を抜いてくれたほどのものであるから、男は溜池に行って大蛇に訴えた。すると「よしよし村の人たち覚えて居れよ」といって、たちまち溜池の水を氾濫させて、下の村を根こそぎ流してしまったという。
高橋康雄著 「結婚の原型」p58~59より引用
個人的な意見ですが、この蛇女房は異類婚姻譚において最も基本的な話なのではないかと思います。蛇女房にはこれから考察していく異類婚姻譚の要素が全て詰まっていますし、何よりその原型は古事記の豊玉毘売(とよたまびめ)伝説に由来すると思われる由緒正しさ(?)も重要でしょう。豊玉毘売伝説において豊玉毘売の住む海底宮殿を兄と諍いを起こした山幸彦が訪れ、3年の間、二人は本来の目的を忘れ楽しく過ごします。(これが浦島太郎の原型とされる)海底宮殿を訪れて3年経った後にやっと山幸彦は本来の目的を豊玉毘売の助けもあって達成します。その後、豊玉毘売は山幸彦の待つ地上にやって来て「あなたの子供を身ごもりましたので地上で産みたいと思います。」と告げる。しかし、自分が出産をする産屋だけは決して覗かないでほしいと訴えが、好奇心に負けた山幸彦は産屋の中を覗いてしまう、そこでは豊玉毘売が巨大な鮫に姿を変えてのたうち回っていた。自らの真の姿を見られた豊玉毘売はそのことを恥じて生まれた子と山幸彦を置いて海へと帰ってしまう。
しかし、豊玉毘売は完全に我が子を見捨てることも忍びなく、その養育の為に妹である玉依毘売(たまよりびめ)を派遣するのだった。
…というのが古事記における豊玉毘売伝説ですが、蛇女房と数多くの共通点がありますね。見るなと言われているのにその人の真の姿を見てしまう。(見るなの禁止)、禁止を犯した夫に怒りつつも、我が子を見捨てることはできず、養育の手段を差し伸べるなど蛇女房は豊玉毘売伝説の延長線上に位置する物語ではないでしょうか。
さて次ははまぐり姫との関係も大いに感じられる、昔話『蛤女房』を紹介します。
(1)男が蛤(魚)を助ける。
(2)女が男のところにきて女房もしくは下女となる。
(3)甘い料理を食べさせる。
(4)男が料理をしているところを覗くと、汚いことをして料理をしている。
(5)女は正体を見破られたことを知り、もとのはまぐり(魚)の姿となって姿をくらます。
高橋康雄著 「結婚の原型」p65より引用
これが蛤女房の基本的な流れになります。女が作った甘い料理とは味噌汁であるという解釈が多く、汚いこととはその味噌汁に自分の小便を入れている、という話が多いようです。この蛤女房は初めて読んだときのインパクトは相当なものであり、「ば、ばっちぃ…」と思わざる得ない内容かと思います。あの著名な民俗学者である柳田国男も著書の中で蛤女房に触れていますが、肝心(?)の小便で味噌汁を作るという部分に関しては「今ではきたならしい小便話にまで零落している」「極端に笑話化されている」と触れるにとどまり、なぜ小便でなくてはいけなかったのかについては明らかになっていません。単に大衆はいつの時代も下ネタが好きであり、下ネタ話になっていることに大した意味は無いのかもしれません。しかし、古事記の中にそのヒントらしきものは存在します。
古事記においてスサノオは天岩戸の一件の後に下界に追放されますが、まず食べ物を都合しなければどうにもなりません。そこでスサノオは下界で出会ったオホゲツ姫に食べ物を求めるとオホゲツ姫は耳や口、肛門から色々な料理を取り出してスサノオに御馳走します。スサノオはオホゲツ姫の『料理』の様子を覗いてしまい、「なんという穢いことをするのだ」と怒り、オホゲツ姫を切り殺しました。殺されたオホゲツ姫の亡骸からは蚕、稲、粟、小豆、麦などが現れたとされています。このように古事記の時点で『汚いことをして料理を作る』という話は存在していたようです。さらにオホゲツ姫の行為に怒ったスサノオも姉であるアマテラスの元にいた時には数々の乱暴を働き、しまいには姉の神聖な御殿に『糞』をまき散らすという暴挙に出ています。現代の我々は下水道の完備や水洗トイレの普及により排泄物を意識する機会は減少しており、単に不衛生なものという意識が強いですが、古い時代において排泄物とは人間の生活にとって切っても切れない重要な存在であったのかもしれません。(なんたって肥料の素材になっていたくらいなのだから)
ですから、蛤女房において小便で味噌汁を作るというのは実は由緒ある(?)行為なのかもしれません。しかし、はまぐり姫は真の姿を現した時の戦闘で謎の液体を卍丸に飛ばしてきますが、蛤女房をベースとして考えるとあの液体は……もしや!?
さらに余談になりますが、上記の高橋康雄はその著書の中である種の嗜癖の持ち主にとって『美女の尿・糞は大歓迎の天然自然の料理ということになる。』としており、フェティシズムの視点から蛤女房を考察しています。確かにその種の趣味の持ち主にとっていきなり自分の妻になってくれた美女が自分の尿で料理を作ってくれているというのは堪らない設定なのかもしれません。
さらに余談になりますが、この蛤女房の原型となったのは、御伽草子の『蛤の草子』であると思われますが、蛤の草子は貧しい漁夫が網にかかった小さな蛤を逃がしてやることでその蛤が人間の美女に化けて嫁に来るという極めて綺麗でな報恩話であり、尿の要素などどこにもないのですが、なぜ蛤女房になるといきなり尿で味噌汁を!?となるのか…多分これについての詳細な考察はあるのでしょうが、書籍化されていたら是非読みたいものです。
さて最後に現代の我々にもお馴染みの『鶴の恩返し(鶴女房)』を紹介します。
(1)昔々、ある老夫婦が罠にかかっている鶴を見かけ、不憫に思って罠を外してやる。
(2)数日後、雪の日に老夫婦の家に旅の途中だという美少女が訪ねてきて一夜の宿を求めた。
(3)老夫婦は快く少女を泊めてやるが、雪はなかなか止まず、自然と少女は長期間にわたって老夫婦の元に滞在することとなる。少女は老夫婦のために甲斐甲斐しく働き、老夫婦も少女に対して愛情を持つ。
(4)ある日少女はいっそのこと老夫婦の娘にしてくださいと頼む。老夫婦も少女の申し込みを喜んで引き受けた。
(5)その後、少女は老夫婦のために美しい反物を織り、老夫婦は市場でそれを売ると高値で売ることが出来た。しかし、少女は自分が反物を織っているところは絶対に覗かないでほしいと老夫婦と約束する。
(6)その後も少女は反物を織り続け、老夫婦はそれを市場で売ることを続けていたが、そのうちに老夫婦はなぜ少女がこうも美しい反物を織ることができるのか不思議になり、つい少女が反物を織っているところを覗き見てしまう。
(7)そこでは一匹の鶴が自分の羽を抜いては糸に縫いこみ、鶴の身体は羽が所々抜けた無残な姿となっていた。
(8)老夫婦に自分の真の姿を覗かれたことに気付いた少女(鶴)は自分はかつて老夫婦に罠から助けてもらった鶴であり、恩返しのためにこうして自分の羽で鶴を織っていたが、正体を見られた以上ここにはいられないと鶴の姿に戻り、老夫婦に見送られながら空へと帰っていく。
私が改めて説明する必要がないくらい有名な昔話ですね。現代では鶴を助けるのは老夫婦であることが多いかと思いますが、独身の男が鶴を助けるパターンも存在します。この鶴の恩返し(鶴女房)の特徴として恩返しとあるように『報恩』が非人間側の動機になっていることが上げられるでしょうか。傘地蔵のように情けをかけた相手が恩返しにやってくるという展開は昔話の基本のように感じるかもしれませんが、異類婚姻譚においては報恩という非人間側の動機付けはそれほど多くは無く、大半は理由も動機もなく、いきなりモテない貧乏な独身男のところに美女がやってきて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるという展開が多いように感じます。余談ではありますが、このモテない独身男の元に美女が理由も動機もなくやってきて惚れてくれるという展開は、現代でも一部の漫画やアニメに引き継がれているように感じます。…と言っても私はその手の作品をほとんど見たことがないのですが…『うる星やつら』とか『あぁ女神さまっ』もこのパターンですよね。(古い)
さて代表的な異類婚姻譚をいくつか紹介してきましたが、全ての話に共通するパターンを感じられた方もいるのではないでしょうか。蛇女房は男の元にやってきて子を『産み』男の元を去っても自分の眼玉を引き抜くという自己犠牲の行為で『養育』の手段を残してくれます。さらに男が他の人間から危害を加えられたと訴えると男の身を『守る』手段を講じてくれます。蛤女房はその方法は人間にとって受け入れがたいものではありますが、男のために『美味しい料理』を作ってくれます。鶴女房では自分の羽を引き抜くという自己犠牲の末に『着物』を作ってくれ、さらにそれを売って『お金』になるようにしてくれます。
このように異類婚姻譚における非人間側(女性)は食べ物、着物、出産、養育、お金…などなど女たちは男に対して一方的な理由のない愛情を注いでくれます。そして男の方はその愛情を関係が破綻するまで受け取り続けるのみです。異類婚姻譚は婚姻譚とあるように夫婦の関係についての説話です。しかし、夫婦であれば平等な立場ですから、互いに助け合うことが基本になるかと思われますので、この異類婚姻譚は夫婦ではなく、『母と子』の関係に近いのではないでしょうか。
北山修は著書において
多くの場合で女性主人公は母親的に描かれており、女性の方が男性の受け身的対象愛(「甘え」)に応えるかたちで嫁にくる。(中略)自虐的世話役とされる女性主人公には豊かな生産性と傷つきや死という二面性がある。美しい彼女は動物であることや醜さや死を隠しており、これを見ることを禁止するのだが、私たちはこの禁止を「見るなの禁止」と呼んだ。女性主人公は自虐的と形容できるほどにまで献身的で母親的であり、見る側で第一者の男性主人公は子どものように描かれる。
北山修 橋本雅之著 「日本人の〈原罪〉」より引用
と、異類婚姻譚の女性主人公(非人間)が母親的な描かれ方をしていることについて述べています。また異類婚姻譚の女主人公は食べ物、着物、子の養育などの世話を焼くだけでなくそれらには自己犠牲が付いて回ります。蛇女房は自らの両目を我が子のために差し出して盲目になり、鶴女房は着物を織るために自らの羽を引き抜き、アンデルセンの人魚姫は王子様のために声を失い、歩くたびに剣で刺されたような激痛と引き換えに人間の足を手に入れます。異類婚姻譚ではありませんが、日本神話においてイザナミ(母神)は数多くの出産の果てに致命的な傷を亡くなります。現実の母親たちも命の危険と引き換えに出産に臨み(現在だと出産の危険性はかなり減っているが、それでも平成27年の妊産婦死亡数は39人も出ているし、時代をさかのぼれば常に年間5000人以上の妊産婦死亡が出ている。子を産むという行為自体が極めて自己犠牲的な行為であるといえる。)、無事に出産できたとしても子が独り立ちするまで自らことを後回しにして育児に奔走するのは太古から現代に至るまで変わっていないでしょう
さて話は天外魔境Ⅱのはまぐり姫に戻ります。そもそもはまぐり姫という存在が異類婚姻譚に該当するのかという問題ですが、はまぐり姫は元々は人魚という人間外の生物であり、根の一族に騙されてからはまぐりの怪物というこれまた人間外の生物になります。
越前国の人魚村にいる人魚ははまぐり姫について
実ははまぐり姫の正体は人間にしてやると根の一族に
だまされた人魚の成れの果て…
と語っており、人間になりたがっていた人魚という設定はアンデルセンの人魚姫との関連性を感じます。有名な話ですが、アンデルセンの人魚姫は人間の王子様に恋をした人魚が大切なものと引き換えに人間の足を手に入れる物語です。また、はまぐり姫は死の直前の台詞から卍丸に好意を持っていたように感じます。(それが恋愛感情としての好意かどうかははっきりしませんが、ファンとしてはそうあってほしいですねぇ…)
また他の方の考察では千年前の戦い、つまりはまぐり姫が根の一族に改造される前後にはまぐり姫が好意を抱いていた相手とは幻夢城を破った義経なのではないかとされています。確かに義経は人魚の血を引いている設定があるようですし、はまぐり姫からすると義経も卍丸も好きになった人間でありながら、最終的にどちらも自分を殺すことになる存在になります。
上記のことから考えてはまぐり姫が人間の男に好意を抱いていた可能性は高いと思われますので、はまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の関係も異類婚姻譚に属するかと思います。(そういうことにさせてください。)
冒頭でも触れたようにはまぐり姫は卍丸と初対面した時に卍丸の母親に化けて風呂、食事、寝床などを用意して『我が子』への世話を焼こうとします。(それが罠であったとしても)
はまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の物語が異類婚姻譚であったとして、そして異類婚姻譚の女性主人公が極めて母親であるとするならば、はまぐり姫の母親に化けて母親的に振舞おうとする行為は異類婚姻譚の原則に則れば当然と言えるのかもしれません。色々とド直球な蛤女房と比較しても夫(異類婚姻譚の原則によれば息子)に対して好きな料理を作って家で待っていてくれて、しかも真の姿を見てしまったことで両者の関係が破綻するという点においてもはまぐり姫の物語は異類婚姻譚的であると言えるでしょう。
そう考えると冒頭で私が「いくらなんでも怪しすぎて罠として成立していなのではないでしょうか」と疑問視したことも異類婚姻譚の女性主人公が極めて母親的であるという原則に則れば些細な問題であると言えます。
話が少し横道に逸れますが、はまぐり姫が卍丸に好意(恋心)を持っていたとしても卍丸とはまぐり姫が実際に触れ合った時間は長くても1,2時間程度と考えられ、好意(恋心)を持つにしても急すぎないか?というつまらない疑問を持ってしまいそうですが、これも異類婚姻譚の原則に沿えば何らおかしいことでもありません。なんせ異類婚姻譚で女主人公が男性主人公に惚れるのに理由など無いのですから。(一部報恩という動機はありますが )
さて、はまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の関係が異類婚姻譚であり、はまぐり姫の卍丸(プレイヤー)に対する母親的立場ということについて考察してきましたが、異類婚姻譚においてもう一つ重要な要素があります。それは一方的に惚れられた男性主人公(人間)と一方的に惚れた女性主人公(非人間)の関係は最終的に必ず破滅に向かうということです。古事記の豊玉毘売伝説もアンデルセンの人魚姫も昔話の蛇女房、蛤女房、鶴女房等々、どれをとっても異類婚姻譚における男女の恋愛関係は末永く続くことはなく、必ずと言っていいほど破綻してしまいます。また、破綻に至る原因もそのほとんどは『男が女の隠しておきたい真の姿を目撃してしまうことで女に対する失望が生じる。』という展開になります。さらに重要なのは女は男に対して私が〇〇するところを見ないでほしい、と約束するも男が好奇心に負けてその約束を破ってしまうことで破綻が訪れるということです。日本神話におけるイザナギとイザナミの関係においても黄泉の国までイザナミを迎えに行ったイザナギは「黄泉の国の神と相談してきますから、その間私の姿を見ないでほしい。」と訴えるも、イザナミはその約束を破って蛆が湧き腐敗したイザナミの姿を目撃してしまいます。そしてイザナミは「吾に辱見せつ」(私に恥をかかせましたね)と激怒して両者の関係は破綻します。また同じく日本神話の豊玉毘売と山幸彦の関係においても「私が子を産むところは見ないでほしい」と豊玉毘売は山幸彦に訴えるも山幸彦はやはりイザナギと同じように好奇心に負けて豊玉毘売の出産の場面を覗き見てしまい、豊玉毘売の真の姿=鮫であることを知ってしまう。そして約束を破られた豊玉毘売は悲しみ、これまた両者の関係は破綻してしまう。
昔話においても鶴女房(鶴の恩返し)で女性主人公は「私が糸を織るところは決して見ないように」と人間側と約束するも好奇心に負けた人間は約束を破って糸を織る場面を覗き見てしまい、蛇女房でも「私が子を産むところは決して見ないように」と人間側と約束するも結局、人間側は約束を破ってしまい、蛤女房では「見るな」と約束された訳ではありませんが、人間側が女性主人公の真の姿を見てしまう…
これら「見るな」と言われた約束を破って「見てしまう」という日本人にとってお馴染みの話のモチーフは『見るなの禁止(見るなのタブー)』と言われています。
ではなぜ異類婚姻譚において女主人公は「見るな」と男に訴えるのか、それは真の姿―――隠しておきたい姿を見られることが女性にとって大きな『恥』であるからだと思われます。
北山修は著書の中で
見ることが互いの越えがたい相違を明らかにしてしまうからこそ、それを防ぐためにいわれたタブーだった
としています。日本神話においてイザナミは腐敗し蛆の湧いた自分の姿を夫であるイザナギに見られたことで「吾に辱見せつ」と怒ったように互いの関係を決定的に終わらせてしまう越えがたい相違―――イザナミにおいては腐敗し蛆の湧いた自らの身体を見るなの禁止によって相手が知ることを防ぐことで、そして人間側が『見るなの禁止』を守る限りは人間と非人間という『越えがたい相違』を持つ関係を続けていくことが出来るわけです。
そしてなぜ女性主人公は自らの真の姿を見ることを『恥』だと感じるのかというと異類婚姻譚で「見るなの禁止」によって隠される女性主人公の秘密は北山修によると
出産、授乳、裸体、排便、排尿などの肉体的、生理的事実が動物的なものとして追放されるのです。同じことを現代においても、人々がきれいごとの世界から、不潔、不健康、いやらしいといって、自分の性、あるいは相手の動物性を隔離する傾向として指摘することができるのではないでしょうか。
北山修著 「日本語臨床の深層第一巻 見るなの禁止」より引用」
としています。確かに見るなの禁止を扱う物語は性的要素や生理的事実が大きくかかわってきます。イザナミが蛆の湧く醜い体になったのはそもそも『出産』という性的行為ですし、豊玉毘売や蛇女房も『出産』という性的行為を夫に見ないでほしいという訴えが元になっています。蛤女房の場合、『排尿』という生理的行動が見るなの禁止によって覆い隠されています。そもそも蛤を始めとする貝類はその形状から女性器に例えられることが多く、その意味でも性的要素と言えるでしょう。
また実際の人間社会においても性的、生理的要素はタブーとされています。セックスや排泄といった行為は人間が生きる上で絶対必要な当たり前の行為ですが、普段の我々の生活でそれらは覆い隠されており、口に出そうものなら「下品」「いやらしい」の一言で片付けられかねません。さらに男性にとって女性の性的な部分はことさらにタブーであるとも言えます。現在では男性も妻の出産に立ち会うケースも増えているようですが、北山修によると
出産の場を夫や男がかい間見ることは儀礼以上にまたそれ以前に、たんに昔話や伝説のモティーフとしてでなく、あらゆる時代、あらゆる民族でタブーである
北山修著 「日本語臨床の深層第一巻 見るなの禁止」より引用
男にとって女の性的・生理的要素は普遍性を持つタブーであるとしています。女性としての性的・生理的要素を背負った異類婚姻譚の女性主人公は自らの尊厳と惚れた男との幸せな生活を守るためにも見るなの禁止を設けざる得なかったということになります。
そして男性主人公が約束を破って女性主人公の隠しておきたい姿を見てしまった結果、必ず訪れる結果として女性主人公の心は「心恥ずかし」あるいは「いと恥ずかし」といった『恥』という感情に支配されてしまい、最終的に女性が一方的に男の元から追放・退去することになります。また、重要な事として異類婚姻譚において約束を破って女性主人公に恥をかかせた男性主人公は何の責任も追及されず、謝罪の言葉もなく、ただ去っていく女性主人公を呆然と見つめているだけです。(蛇女房のように女性主人公が去った後も交流が続くケースもありますが)
ではなぜ、女性主人公は『見られた』ことで『恥』を感じるのでしょうか。
北山修は『恥』の原因として見る側の視線と見られる側の期待の不一致、すれ違い、食い違いが顕著な関係性によるものとしています。
常識的に言っても、恥は想像上の他者の注視や、現実の他人の注視のもとで経験されるが、すべての注視が恥の反応をひきおこすのではなく、それは特別の注視である。例えばモデルや患者の場合のように、普遍的な存在として見られることを志向する場合、他人が彼らをそのような存在として注視しても羞恥はおこらない。一方、恋人同士の場合のように、個人的な存在として見られることを期待している時、その期待に応じた注視が向けられるならば羞恥はおこらない
北山修著 「日本語臨床の深層 第一巻見るなの禁止」より引用
例えるならば美術におけるヌードデッサンの場合、裸体を晒してはいますが、モデル側もデッサンする側も裸体になっているのは美術の勉強の為であり、他意は無い。という共通の認識が存在しているので羞恥も生まれにくいですが、デッサンする側がスケベ心をみせて、それがモデル側に伝わったとすると見る側の視線と見られる側の期待の不一致が生まれてしまい、モデル側(見られる側)に羞恥が生まれるということになります。日本神話においてイザナギは腐敗したイザナミを『見るなの禁止』を破って見てしまい、恐れて逃げ出してしまう。夫であるイザナギが自分の姿に驚愕して逃げてしまったのを知ったイザナミは「吾に辱見せつ」と恥をかかされたことを怒り、関係は破綻します。蛤女房でも料理しているところを覗くな、と約束したわけではありませんが、それまで押しかけ女房の美味しい料理に舌鼓を打っていた男は妻の料理風景を見て、何という穢いことをするのか!と怒り、妻は追放されます。このように『見た』『見られた』ことも問題ですが、『見た』ことで男性主人公の『妻は勿論人間で若い美女であり、自分に甲斐甲斐しく尽くしてくれている』という期待は『見る』以前と比べて大きく不一致が生じてしまいます。
そして期待の不一致が生じた結果、女性主人公は『恥』という感情に支配されて男性主人公の元を去らざる得なくなります。
また、上記の『期待の不一致』以外にも男性主人公が女性主人公を拒絶するようになる原因として『幻滅』が上げられます。異類婚姻譚の女性主人子は『若く、美人で、男性主人公に理由もなく惚れていて、甲斐甲斐しく尽くしてくれる』という男性主人公にとって都合が良過ぎると言えるくらい完璧な存在です。そんな完璧なはずの存在が、実は蛆が湧いた死体だった、実は蛇だった、実は小便で味噌汁を作っていた…この理想と現実のあまりの大きさが、男性主人公にとって精神的な衝撃となり、今まで完璧だと思っていた女性主人公への幻滅が生じて、拒絶へと繋がるのではないでしょうか。また、北山修は男性主人公の幻滅は子供が母親に対して覚える幻滅でもあると述べています。
とにかく、相手からどんどんどんどん与えられることによって、その幻想はこわれないのです。これは母子関係における、母親が一方的献身によって、子どもに適用している、そしてそれがこわれていく過程を繰り返したものではないか、というふうにとらえることができます。(中略)まさしく子どもが大きくなっていくときの母子一体の関係がくずれていく、幻想が幻滅にいたる過程である、というふうにとらえることができます。
北山修著 「日本語臨床の深層第一巻 見るなの禁止」より引用
全てを母親の世話になっている幼児にとって母親とはまさしく全知全能の神であり、完璧な存在であると言えますが、その幼児が段々と成長し、大人の目線で物が見えるようになってくると全知全能であったはずの母の不完全な点が目につくようになります。誰しも思春期以降になると「あぁ、親父はあそこがダメだなぁ…」とか「あぁ、オカンはそういうことするのがダメだなぁ…」といった感情を抱くようになり、そこから精神的自立が始まるのではないでしょうか。そして完全に大人になるとそういった両親の不完全な面も含めて偉大な存在であると受け止めることができるようになります。既に異類婚姻譚は母と子の物語である、と述べましたが、この幼児が抱く母への理想と幻滅も男性主人公が女性主人公を拒絶する異類婚姻譚の基本的構造の源流であると考えられます。
また、上記以外にも高橋康雄は著書で男性主人公が女性主人公を『見た』ことにより拒絶してしまうのは『恥』や『幻滅』の感情だけではなく一種のカルチャーショックであると述べています
ホオリ(※)が鰐の姿を見て驚いたのは無知であったからではなく、異文化との接触によるカルチャーショックの表出であり、氏族同士のタブーというものが初めて明るみになったことなので仕方がなかったのである。タブーゆえに見てはならないのであり、禁室が存在するのはいささかも道理に反することではないのである。
高橋康雄著 「結婚の原型」より引用
※ホオリとは山幸彦の別名
つまり、男性主人公(人間)は女性主人公(非人間)を当然の如く人間であると思い、自分と同じ文化圏にある存在として接していたのだが、ある日突然、妻が自分達とは全く異なる文化圏に属することを何の準備も無いままに突き付けられたわけであり、そこで驚愕し、驚愕のあまり妻を拒絶してしまうのは仕方のないことであるということです。(極端に例えるなら自分の妻や恋人が人間だと思っていたのに―――そんなことを疑問に思うことすらないだろうが、実は宇宙人だったという事実を突きつけられたら、それこそ究極のカルチャーショックであり、驚愕のあまり拒絶以外の選択肢は思い浮かばないでしょう)
さて、ここまで長々と見るなの禁止と説話、昔話との関連について述べましたが、ここから本題であるはまぐり姫と見るなの禁止の関連性について考察していきます。
はまぐり姫は天外魔境Ⅱにおいて絶世の美女として描かれており、ファンの人気も高いキャラクターです。現に辻野先生のサイン会でもはまぐり姫を希望される方が大勢いらっしゃいました。しかし、そんな絶世の美女はまぐり姫の真の姿は奇怪な蛤の怪物であることは天外魔境ファンの方なら勿論ご存知でしょう。前述したように北山修は「見ることが互いの越えがたい相違を明らかにしてしまうからこそ、それを防ぐためにいわれたタブーだった」と述べていますが、はまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の間には『正体は蛤の怪物』という越えがたい相違が存在しています。また男女の関係において女性の「出産、授乳、裸体、排便、排尿などの肉体的、生理的事実が動物的なものとして追放されるのです。」とも前述しましたが、蛤を始めとする貝類はその形状から女性器の暗喩として使用されることが多いように蛤というモデルそのものが、女性の肉体的、生理的事実と強く繋がっています。桝田省治さんによると
北陸といえば蜃気楼、蜃気楼といえばはまぐり、はまぐりといえば女性(改めて整理してみると、『天外Ⅱ』って下品な発想ばかりだ)
とはまぐり姫について述べていますので、やはりはまぐり姫の蛤というモデルは女性器を意識したものであると思われます。さらに個人的感想ですが、はまぐり姫の真の姿は正面から見ると女性器のようでありますが、公式ガイドブックに掲載されている横と後からの姿を見ると男性器を思わせるシルエットに感じます。これら「絶世の美女かと思ったらそもそも人間ですらなかった」「はまぐり姫の真の姿は男にとってタブーである女性の肉体的、生理的事実がこれでもかと詰まった姿であった」という越えがたく、眼を逸らしたい事実を覆い隠すためにも、そしてそこから生じるはまぐり姫の恥と卍丸(プレイヤー)の幻滅を防ぐためにもはまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の間には『見るなの禁止』が必要だったのではないかと思われます。勿論、はまぐり姫は卍丸(プレイヤー)に「見るな」と言ったわけではありません。しかし、卍丸(プレイヤー)は、はまぐり姫を「見せねばなるまいのお」と言わせるほど知らず知らずのうちに追い込んでしまい、結果的に『見るな』の向こう側を覗いてしまうことを考えると異類婚姻譚の変化球の一つであると言えます。そして異類婚姻譚の原則に則って『見た』『見られた』はまぐり姫と卍丸(プレイヤー)の関係は破綻へと向かいます。昔話の女性主人公は男性主人公の前から立ち去りますが、天外魔境Ⅱでは男性主人公(卍丸)が女性主人公(はまぐり姫)を殺害することにより、女性主人公は物語から姿を消します。異類婚姻譚の女性主人公は母親的存在であり、その母親的存在である、はまぐり姫を息子的存在である卍丸が殺害するという展開はその時点から卍丸が母からの精神的依存を抜け出し、大人へと成長したことを意味しているのかもしれません。
また、前述した高橋康雄が述べている通り、はまぐり姫の真の姿を見た卍丸(プレイヤー)が美女のはまぐり姫は受け入れられても、蛤の怪物のはまぐり姫を拒絶してしまうのは「異文化との接触によるカルチャーショックの表出である」とも言えるでしょう。それまで美女という手が届かないながらも、自分と同じ文化圏にいると思ったはまぐり姫が一瞬のうちに自分とは全く異なる文化圏に去ってしまう、このカルチャーショックも私達がはまぐり姫の真の姿に衝撃を受ける一因だと思われます。そう考えると今でも話題になる「わらわの生まれたままの姿を…」という台詞は同じ文化圏に属する存在の新たな面が見れると思ったのに一気に異文化に叩き落とすという効果において抜群の結果を残したと感じます。(男のプレイヤーをスケベ心で一杯にさせといてあれですからねぇ…)
さらに異類婚姻譚の男性主人公はほとんどの場合、『見た』ことの責任をとらなければ謝罪もしません。女性主人公に恥をかかせるだけかかせてそこで物語は断ち切られます。はまぐり姫も『見るなの禁止』を破られたことで神話や昔話の女性主人公と同じく『恥』の感情に支配されたと思われます。昔話の女性主人公は『恥』を受けて立ち去るのみですが、戦うことを運命付けられた根の一族のはまぐり姫は逃げることができません。真の姿のはまぐり姫との戦闘に敗れるとはまぐり姫はこのような台詞を言います。
わらわの正体を知って生きて帰った男などおらぬわ!
今までもそしてこれからもじゃ!!
この台詞から察するにはまぐり姫は卍丸以外にも何らかの理由で複数の男に対して真の姿を晒してきたのでしょう。そして『見られた』ことによって生じた恥と自尊心の喪失を男を殺すことで、なんとか守ってきたのではないでしょうか。はまぐり姫にすると「この男ならわらわの真の姿を受け入れてくれるかもしれない…」という淡い期待を抱いて男たちの前に真の姿を何度か晒したのかもしれません。しかし、その期待は全て裏切られ…殺すという対処方法を選ぶしかなかったと。
そしてプレイヤーが幻夢城前でプレイを止めてしまわない限り、いつか必ず、はまぐり姫は真の姿を晒してしまい、他の女主人公と同じように恥と無念の気持ちにまみれたまま死んでいきます。
最期になりますが、この考察の為に様々な資料を読んでいて思ったのですが、異類婚姻譚に登場する男というのはあまりに無責任で無神経で配慮に欠けるのではないでしょうか。約束を破ってしまうのは仕方がないのかもしれません。見るなと言われても見たい欲求にかられるのは女性だって同じでしょう。しかし、女性主人公に『恥』をかかせてしまうのは『見た』後の男の行動によります。もし日本神話においてイザナギがイザナミの腐敗した姿を見てしまったとしても、そこから逃げ出さずに腐敗したイザナミを受け入れることは難しいにしても、一言謝罪の言葉をかけることができたら、イザナミの『恥』は少しは軽減したのではないでしょうか。男にとって衝撃的な事実を見てしまう蛤女房にしてもいきなり怒って妻を追い出すのではなく、なぜそんなことをしているのか、もしかしてあの美味い味噌汁と関係があるのか、とちょっとでも冷静に考えられていたら物語の結末はどうだったでしょうか。異類婚姻譚というのは大昔から男の卑怯な精神性を映し出し、叱責する男にとって鏡のような物語なのではないでしょうか。
はまぐり姫は人気の高いキャラクターですが、真の姿の方はファンにとっても受け入れられているとは言い難いものがあります。私も辻野先生にイラストを描いていただくという貴重な機会ではまぐり姫を描いていただきましたが、私も『第二形態でお願いします!』と辻野先生にお願いする度胸はありませんでした、というかそういう選択肢すら頭に浮かびませんでした。しかし、女の真の姿を否定し、拒絶するという男の行為こそが女性主人公―――はまぐり姫を傷つけてしまうことになるのであり、異類婚姻譚そしてはまぐり姫という物語は全ての男に対して「女に自分の理想を押し付けるな、現実を知ってしまったからといって女を否定するな、現実から目を背けるのは女を傷つける卑怯な行為であり、見てしまったら素直に謝れ。」と言い続けているのかもしれません。
ラストではまぐり姫が生き返っていることを知った時の喜びは、好きなキャラが生きていて嬉しいという他にも恥をかかせて死んでしまった女が生きている=男の無責任さが許された。という安堵感もあるのかもしれません。そしてあのはまぐり姫の微笑は「次こそはわらわから逃げるなや」と言っているのかもしれない…
参考・引用文献
北山修 『日本語臨床の深層第一巻 見るなの禁止』 岩崎学術出版社 1993年
堂野前彰子 『日本神話の男と女―「性」という視点』 三弥井書店 平成26年
コンプコレクションスペシャル 天外魔境Ⅱ卍MARU公式ガイドブック PCエンジン編集部 株式会社角川書店 1992年
『古事記03現代語訳』 青空文庫 底本『古事記』角川文庫、角川書店 1956年
参考・引用ウェブサイト